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つかもと てつや

塚本哲也

つかもと てつや

1929.4.29(昭和4)〜 2016.10.22(平成28)

昭和・平成期の記者、ノンフィクション作家

埋葬場所: 12区 2種 28側

 群馬県出身。旧姓は木村。ノンフィクション作家の木村裕主は実兄。
 戦後の世界がどこへ向かうのかを見届けたいという理由で毎日新聞社に入社し記者となった。最初は政治部記者として岸信介を担当。1959(S34)オーストリア政府給費留学生としてウィーンにて国際法を勉強していた時に、ピアニストとして同地に滞在していた塚本ルリ子(同墓)と知り合い結婚。塚本家の婿養子となり、塚本姓となった。
 60年代を新聞記者として、ウィーン、プラハ、ボンの特派員を歴任。その頃の欧州は冷戦の主戦場であり、旧ソ連軍のチェコ侵攻などを取材。取材中に銃口を向けられたり、戦車にひかれそうになったこともあるという。
 帰国後は、主に西欧の歴史を描くノンフィクション作家として活動し、'92(H4)『エリザベート ハプスブルグ家最後の皇女』で、第24回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。著書は多数あり、'78『フィンランド化 ソ連外交の論理と現実』、'81『孤立する大国ニッポン』、'91『平和ドイツの時代』、'96『わが青春のハプスブルク皇妃エリザベ−トとその時代』、2001『王妃マリー・アントワネット』、2002『奇跡の少女ジャンヌ・ダルク』など。また、'86 妻の父である放射線医学者の塚本憲甫を描いた『ガンと戦った昭和史 塚本憲甫と医師たち』(上下)を執筆し、第8回講談社ノンフィクション賞を受賞した。
 1999〜2003(H10〜14)東洋英和女学院大学長に就任。2002 脳出血で倒れ、右半身麻痺となる。このため、2003 学長を退任し、故郷である群馬県のケアホーム新生会に移住。ペンも持てず、リハビリ目的で始めたパソコンを左手の指でキーボードをたたく作業を毎日数時間かけて行ない、2年かけて『マリー・ルイーゼ』の本を書き上げた。この作品を描く前、最初はナポレオンの好敵手だった政治家メッテルニヒを取り上げる予定であったが、妻のルリ子から「自分の名誉を重んじた男性より、民衆に尽くした女性を書いてみたら」とマリー・ルイーゼを勧められたのがきっかけであった。『マリー・ルイーゼ』の作品は、自国オーストリアを侵略したナポレオンに嫁ぎ、晩年は北イタリアの小国「パルマ公国」の女王になった女性の物語である。なお、この『マリー・ルイーゼ』執筆中の、2005 妻のるり子は急逝している。その後、当初書こうとしていた『メッテルニヒ』の作品に着手し、2009 完成。2016 没した年『我が家の昭和平成史 がん医師とその妻、ピアニストと新聞記者の四重奏』を自費出版した。享年87歳。

<著者略歴>
<毎日新聞2006.6.26朝刊「あきらめなければ、道は開かれる−塚本哲也」など>


墓所

*墓石正面「塚本家之墓」。右に「玄門先生謝恩碑」が建ち、「昭和四十九年三月 奉天工業大学同窓会」と刻む。並んで墓誌が建つ。墓誌は八代目の福岡県士族 塚本道甫(M41.5.17没・行年79才)からから刻みが始まる。塚本道遠は九代、塚本玄門は十代と刻む。道遠の妻は教育家の塚本ハマ。二人は三男三女の子供を儲けており、長男で教育者の玄門、二男で漢方学者の赳夫、三男で放射線医学者の憲甫の三男とも同墓に眠る。墓誌にルリ子は「憲甫長女 哲也妻」、哲也は「憲甫嗣子」と刻む。



第315回 がん医師とその妻、ピアニストと新聞記者の四重奏
塚本ルリ子 塚本哲也 お墓ツアー


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