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つかもと はま

塚本ハマ

つかもと はま

1866(慶應2.6.20)〜 1941.6.30(昭和16)

明治・大正・昭和期の家庭教育者、家政学者

埋葬場所: 12区 2種 28側

 江戸本郷出身。旧姓は小川。父は維新時、徳川家移封に従って遠州横須賀に移住した。
 静岡県の県費留学生として東京師範学校女子部に学ぶ。この時の級友に野口幽香(23-1-60)がいる。両親を相次いで亡くし失意落胆していた野口幽香に寄り添い、孤独な野口に教会に誘っている。これがきっかけで野口は受洗し、幼児教育家、社会福祉事業家の道を進むことになった。
 1890(M23) 学制改革により女子高等師範学校と変更された第一回卒業生となる。卒業後、大阪師範学校女子部に赴任し、教諭 兼 舎監。1893.3 梅花女学校講師となり、『婦人教育雑誌』を創刊した。同年、塚本道遠(同墓)と結婚。この結婚の仲介に野口幽香が当たっている。
 結婚に伴い東京に移り、東京女学館の教諭に転身。この頃、最初の高女用家事教科書『家事教本』の執筆をはじめる。夫の道遠は農学の知識があったため協力を得、栄養書を入れた教科書を公刊した(1900)。
 道遠とハマは、6人の子供を儲けているが、子供を育てる傍ら教壇に立ち続けた。長男の玄門(M26.10生)、二男の赳夫(M30.5生)を出生までは東京女学館で教鞭をとり、1898.4-1901.5 女子高等師範学校附属女学校教諭。その後、長女の圭子(M34.1生)、次女の節子(M35.9生)、三女の光子(M36.9生)を立て続けに出産。'03.8-'05.12 東京私立淑徳女学校教諭。この間、三男の憲甫(M37.9生)を産んだ。
 夫の道遠が塩田技師として朝鮮の朱安塩田の実地調査や試験、創立に向けて赴任。自宅を長期不在にするため、下宿をしていた長男の玄門以外の二男以下の五子を連れて静岡に移住。'06.4 静岡県立高等女学校教諭に転じた。
 '11 夫の道遠が帰朝したため再び一家は東京に住むことになり、同.9 私立青山女学院教諭教頭となる。'23.3(T12) 津田英学塾講師も兼ね、『家事教本』上下巻の二冊を出版。東京女子大学創立に青山女学院代表として尽くす。
 その後、文部省農商務省嘱託、生活改善同盟会理事など生活改善事業、婦人平和協会、養育会、水上生活者児童の教育事業、自由学園創立期の世話、友の会創立の世話など幅広い活動を遂げた。講演にも意欲を燃やし、家事労働の軽減によって女の進歩と向上をと説き、全国各地を1500回以上歩いたといわれる。著書に『家庭生活の合理化』などがある。享年76歳。

<講談社日本人名大辞典>
<日本女性人名辞典>
<人事興信録など>


墓所

*墓石正面「塚本家之墓」。右に「玄門先生謝恩碑」が建ち、「昭和四十九年三月 奉天工業大学同窓会」と刻む。並んで墓誌が建つ。墓誌は八代目の福岡県士族 塚本道甫(M41.5.17没・行年79才)からから刻みが始まる。塚本道遠は九代、塚本玄門は十代と刻む。ハマは「道遠 妻」と刻む。


【塚本家】
 塚本家初代は黒田長政に仕えた「塚本道庵」を祖とし、塚本道遠が9代目、玄門が10代目である。
 塚本道遠とハマとの間に三男三女の子供を儲ける。長男の塚本玄門(1893.10-1973.7.10)は満州の奉天工業大学などで教えた教育者であり、戦後は福岡教育大学初代学長を務めた人物。二男の塚本赳夫(1897.5.20-1977.1.17)は漢方学者。圭子(1901.1-?)は坂本家に嫁ぐ。次女の節子(1902.9-?)は一時、母のハマの小川家に里子に出された時期もある。津田栄に嫁ぐ。三女の光子(1903.9.16-?)は薬学者の三堀三郎に嫁ぐ。三男の塚本憲甫(1904.9.16-1974.6.7)はガンの放射線治療の世界的な権威。ハマは立て続けに年子を産み、光子と憲甫は誕生日が同じである。
 塚本玄門の妻は久良(1983.3.20没・行年82才)。玄門の長男の千門は3才、次男の道一は満20才、三男の榮二は満19才、次女の紅子は池邊家に嫁ぐも24才と、子息は若くして亡くしている。塚本赳夫の妻は克(1991.8.22没・行年87才)、子宝には恵まれなかった。塚本憲甫の妻はテイ(1974.6.20没・行年69才:憲甫が亡くなった13日後に没す)。憲甫とテイの長女の塚本ルリ子、ピアニストとして活躍。ルリ子の夫で婿養子となった塚本哲也はジャーナリスト・ノンフィクション作家。
 塚本ハマの旧姓は小川。ハマの長兄は小川晴生(はるなり)。晴生は銹三郎(旧姓は高柳)を養子としている。長姉は あい、次姉は銀。ハマは末っ子の三女。長姉の あい は旗本の田口栄太郎(精一)に嫁いだ。栄太郎の父方の祖父である田口久吾正勝の妻は滝沢馬琴の妹の菊。あい と栄太郎の間に五人の子供を産んだが、成人したのは浪(なみ:1910没)と政吉(まさよし)であった。浪は石井伊吉に嫁ぎトラ(1977没)と辰雄の二人が成人した。トラは石坂定次に嫁ぎその三女が登美。政吉と(望月)澄との間の五人の子供のうち桂、政久、政典(2002年没)の三人だけが成人した。政典と(石坂)登美との間の四人の子供の内の上の二人は戦後の混乱で死亡し、三番目が田口重久(今回情報を提供していただいた方)。


※2023.2(R5)塚本ハマの姉のあい の曾孫(母方は玄孫)にあたる田口重久様より家系図など詳細な情報をご提供いただきました。田口重久様の父である田口政典氏は1960年代から90年代にかけて都内にて多くの写真を撮影しており、重久様が「歩いて見ました東京の街」HP( http://masanori1919.web.fc2.com/ )にて変貌を遂げる東京の街の写真アルバムを公開されてます。


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