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つかもと みちとう

塚本道遠

つかもと みちとう

1866(慶應1.12.22)〜 1943.4.21(昭和18)

明治・大正・昭和期の農学者、塩田技師、実業家

埋葬場所: 12区 2種 28側

 筑前国(福岡県)出身。塚本通甫、フジ(共に同墓)の二男として生まれる。兄が乳児の頃に亡くなり両親が悲しんでいる時に生まれたため「又喜(またき)」と名付けられた。1883.12(M16)家督を相続し、塚本家の九代目となる。1895.8 名前を塚本又喜から道遠と改める。塚本家初代は黒田長政に仕え「塚本道庵」の名を継承していたことから、「道」の字をあてたとされる。
 東京帝国大学農学部卒業。農学者として化学会誌などにオスカー・ロイプと共著で論文を出す。後、塩田技師になる。
 1893(M26)ハマ(同墓)と結婚。ハマは女子教育者として活動する一方で最初の高女用家事教科書『家事教本』の執筆をはじめる。道遠は農学の知識があったため、ハマを助け、栄養書を入れた教科書を公刊した(1900)。
 当時日本における塩の生産及び販売は、中国からの安価な塩の輸入の急増によって打撃を受けていた。朝鮮内の塩の生産も大きな打撃を被っていた。そこで朝鮮総督府による官営製塩方針の確定が行われ塩業の改革が行われることになった。'06 京畿道の朱安塩田の創立支援のため農学を研究していた道遠は塩田の技師として朝鮮に赴任することになった。長期間の赴任であるため、下宿をしていた長男の玄門を除く、妻のハマと子息五子は静岡に移住。
 道遠は実地調査や試験を行う。その際、『韓国天日塩田官業計画書ニ対スル意見ノ要領』を出し、官業生産による塩の設定価格が中国塩に比べて高価であることや、また経営に関して、塩生産予定額は過大で生産費は過少に評価されていると指摘した。しかし、'09 官営天日塩田の建設が開始され、朝鮮における塩業の改革は、'14までに京畿道朱安と平安南道広梁湾に1033町歩に及ぶ塩田を完成させた。
 '11頃、朱安塩田の塩田技師としての役目を終え帰朝。そのため再び一家は東京に住む。その後、実業界に転じ、亞細亞護謨株式会社(亜細亜ゴム)取締役になる。また引き続き農学者としても活動した。享年76歳。

<「統監府の塩業改策について」田中正敬>
<九州薬事新報 昭和48年(1973) 7月15日号「過ぎし日々」塚本赳夫>
<人事興信録>


墓所

*墓石正面「塚本家之墓」。右に「玄門先生謝恩碑」が建ち、「昭和四十九年三月 奉天工業大学同窓会」と刻む。並んで墓誌が建つ。墓誌は八代目の福岡県士族 塚本道甫(M41.5.17没・行年79才)からから刻みが始まる。塚本道遠は九代、塚本玄門は十代と刻む。道遠の妻は教育家の塚本ハマ。二人は三男三女の子供を儲けており、長男で教育者の玄門、二男で漢方学者の赳夫、三男で放射線医学者の憲甫の三男とも同墓に眠る。また憲甫の長女のルリ子はピアニスト、ルリ子の夫で婿養子となった哲也はノンフィクション作家であり同墓に眠る。


【塚本家】
 塚本家初代は黒田長政に仕えた「塚本道庵」を祖とし、塚本道遠が9代目、玄門が10代目である。
 塚本道遠とハマとの間に三男三女の子供を儲ける。長男の塚本玄門(1893.10-1973.7.10)は満州の奉天工業大学などで教えた教育者であり、戦後は福岡教育大学初代学長を務めた人物。二男の塚本赳夫(1897.5.20-1977.1.17)は漢方学者。圭子(1901.1-?)は坂本家に嫁ぐ。次女の節子(1902.9-?)は一時、母のハマの小川家に里子に出された時期もある。津田栄に嫁ぐ。三女の光子(1903.9.16-?)は薬学者の三堀三郎に嫁ぐ。三男の塚本憲甫(1904.9.16-1974.6.7)はガンの放射線治療の世界的な権威。ハマは立て続けに年子を産み、光子と憲甫は誕生日が同じである。
 塚本玄門の妻は久良(1983.3.20没・行年82才)。玄門の長男の千門は3才、次男の道一は満20才、三男の榮二は満19才、次女の紅子は池邊家に嫁ぐも24才と、子息は若くして亡くしている。塚本赳夫の妻は克(1991.8.22没・行年87才)、子宝には恵まれなかった。塚本憲甫の妻はテイ(1974.6.20没・行年69才:憲甫が亡くなった13日後に没す)。憲甫とテイの長女の塚本ルリ子、ピアニストとして活躍。ルリ子の夫で婿養子となった塚本哲也はジャーナリスト・ノンフィクション作家。
 塚本ハマの旧姓は小川。ハマの長兄は小川晴生(はるなり)。晴生は銹三郎(旧姓は高柳)を養子としている。長姉は あい、次姉は銀。ハマは末っ子の三女。長姉の あい は旗本の田口栄太郎(精一)に嫁いだ。栄太郎の父方の祖父である田口久吾正勝の妻は滝沢馬琴の妹の菊。あい と栄太郎の間に五人の子供を産んだが、成人したのは浪(なみ:1910没)と政吉(まさよし)であった。浪は石井伊吉に嫁ぎトラ(1977没)と辰雄の二人が成人した。トラは石坂定次に嫁ぎその三女が登美。政吉と(望月)澄との間の五人の子供のうち桂、政久、政典(2002年没)の三人だけが成人した。政典と(石坂)登美との間の四人の子供の内の上の二人は戦後の混乱で死亡し、三番目が田口重久(今回情報を提供していただいた方)。


※2023.2(R5)塚本ハマの姉のあい の曾孫(母方は玄孫)にあたる田口重久様より家系図など詳細な情報をご提供いただきました。田口重久様の父である田口政典氏は1960年代から90年代にかけて都内にて多くの写真を撮影しており、重久様が「歩いて見ました東京の街」HP( http://masanori1919.web.fc2.com/ )にて変貌を遂げる東京の街の写真アルバムを公開されてます。


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