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ひぐち すけひろ

樋口助弘

ひぐち すけひろ

1893(明治26)〜 1955(昭和33)

昭和期の放射線医学研究家

埋葬場所: 26区 1種 29側

 新潟県出身。1922(T11)九州大学医学部卒業。北里研究所や九州大学助手を経て、九州大学講師をしていた'27(S2)「人の同種血球の溶解素についての研究」で医学博士。翌年から一年間、欧州留学しレントゲン物療学を修めた。 帰国後は、'32東京慈恵会医科大学教授、放射線物療科学部長、'38日本レントゲン学会長、'41学術研究会議放射線医学協議委員などを歴任。 戦後は、'47日本医学放射線学会長、日本放射線技術学会名誉会長、'48日本学術振興会第115小委員会委員、財団法人東京慈恵会医科大学理事、日本医学会幹事、'50社団法人日本医学放射線学会総務理事、'52診療エックス線技師国家試験委員長、科学技術行政協議会専門委員、'53医師国家試験委員、'54社団法人日本放射性同位元素協会理事、'55診療エックス線技師国家試験委員長、日本医学会評議員、日本工業標準調査会委員、'56日本学術会議原子力特別委員会委員、厚生省成人病予防対策協議連絡会委員、文部省科学研究費等分科審議会委員、原子力委員会専門委員、日本原子力研究所放射線防護委員、文部省大学設置審議会臨時委員、'57放射線医学総合研究所長、日本工業標準調査会委員、国立遺伝学研究所評議員、日本学術会議原子力特別委員会委員幹事、日本学術会議放射線影響調査特別委員会委員医学班主任、原子力委員会専門委員、放射線審議会委員を務めた。
 '58(S33)正五位勲四等に叙せられ瑞宝章をおくられた。わが国で放射線が医療に利用されたはじめから、主としてエックス線の利用による診断、治療に関する研究に従事、その成果を数多くの論文に発表し、特に放射線障害の研究に力を注がれ、放射線保護物質の研究や、'56(S31)文部省科学研究費による総合研究、特に「放射能の人体最大許容量の決定」については、研究班長としての取りまとめにあたるなど学界の推進力として多方面に大きな足跡をのこしている。 享年62。葬儀は放射線医学総合研究所および東京慈恵会医科大学の合同葬として、8月13日芝青松寺において執り行われた。

<新潮人名辞典など>


 


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