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かのう こうきち

狩野亨吉

かのう こうきち

1865.9.17(慶応1.7.28)〜 1942.12.22(昭和17)

明治・大正・昭和期の哲学者、思想家

埋葬場所: 8区 1種 13側 21番

 出羽国秋田郡大館町(秋田県大館市)出身。祖父は大館城代組下久保田藩士の狩野与十郎良安、祖母は歌人の狩野水子(同墓)。大叔父に漢学者の狩野徳蔵(旭峰)。父は家老・漢学者の狩野良知、千代子(共に同墓)の二男として生まれる。兄は自由民権運動家の狩野元吉(同墓)。幼少のとき、父の良知が内務省出仕となり一家は東京に移る。この時、9歳である。
 1877.9.17(M10) 母を亡くす。この頃より寂しさを紛らわせるために読書をするようになり書物好きとなる。1878 第一番中学校に入学。同窓に夏目漱石(金之助)、上田萬年、澤柳政太郎らがいた。東京大学予備門を経て、1888 東京帝国大学数学科卒業。最初は「万学の基礎としての数学」とし、江戸時代の和算書や天文学書から学ぶ。動物学者のモースの「進化論」の講演を聞き感銘を受け、さらに日本人の知力発展史を確かめるため、日本科学史への強い関心を抱き研究をしている中で哲学に傾倒していった。そのため大学卒業後、哲学科に編入学し、哲学を学ぶ。加えて西洋の哲学理論ではなく、自己の哲学を求める気持ちが強く、日本の思想史を研究した。1891 哲学科を卒業。大学院に進み、「数学のメソドロジー」を研究。メソドロジー(methodology)とは「方法論」である。
 大学院修了後、金沢の第四高等学校教授となり、星学(天文学)、数学・論理学を講じた。一方、課外講演では、関孝和、志筑忠雄など、日本科学史研究の成果を次々と発表した。明治時代はお雇い外国人教師から西洋の学問を積極的に取り入れられていたが、狩野は日本の学問も軽視することなく、自国の学問、真に日本人としての誇りを回復する作業を行った。ゆえに西洋留学をしなかった。
 日本科学史研究上画期的な論文となる『志筑忠雄の星気説』を発表する。志筑の『暦象新書』中の宇宙生成論「混沌分判図説」に注目し、カント・ラプラスの星雲説と比較し、その独創性をたたえている。志筑忠雄はここに日本物理学の嚆矢として初めて紹介された。この論文が、後の日本科学史研究へ大きな影響を与えた。
 1898.1 当時第五高等学校教授であった夏目漱石から第五高等学校教授と教頭兼任へ熱望される。この時の待遇は年俸千六百円であった。明治30年代の物価と現在の物価は当時の3800倍であるため、この時期の1円は今の3800円相当である。よって、待遇は年俸約600万円相当となる。これに応じた狩野は第四高等学校を辞して、熊本に赴き第五高等学校に着任した。なおその後、小説家となる夏目漱石の創作や思想の本質部分は狩野からの影響が大きく、デビュー作『吾輩は猫である』の猫の飼い主の苦沙弥(くしゃみ)先生のモデルである。また夏目漱石の葬儀では友人代表として弔辞を読んだ。
 第五高等学校に着任した年、同.11 第一中学校からの親友である澤柳政太郎の後任として、第一高等学校校長に抜擢される。澤柳は同年7月に校長に着任したばかりであったが、わずか四か月で文部省普通学務局長となるスピード出世となり辞任する運びとなり後任を急いで探していた。この人事は狩野へは事後承諾であったという。同.11.24 第一高等学校校長に就任。この時、33歳であった。第一高等学校長として多くの生徒の信頼を得、「一高健児」の校風をつくった。
 狩野は生涯を独身で過ごした。無妻主義によるものといわれている。この時期に、夫を亡くした次姉の久子の前小屋一家が上京してきた。久子の連れ後の次男(定吾)と長女とも同居。また兄の元吉の早世により、その子の狩野剛太郎(同墓)を養子縁組し面倒もみていた。以後、姉の前小屋久子が狩野家の世話をした。狩野が生涯独身だったことに対して、「数にも割り切れぬ数がある。私の独身はこれと同じだ」と言っている。
 1906 京都帝国大学文科大学創設とともに学長(兼 教授)となる。すでに内定していた大西祝が急逝したための抜擢であったが、当初は一高を離れたくなく辞退したものの、木下広次総長から説得され京都に行く決意を固めた。在野の内藤湖南や幸田露伴を迎えて、京都文科大学は特色ある学風を形成した。この学風から後に西田哲学が生まれ、戸坂潤(25-1-18-32)や三木清らが育ち、さらには、湯川秀樹の理論物理学が生まれていくことになる。なお、'07 木下総長推薦で文学博士。また学長を務めながらも教壇に立ち、独創的な科学的方法による倫理学の講義を行った。
 '08.12 東京数学物理学会主催の「関孝和二百年忌記念講演会」で、「記憶すべき関流の数学家」を発表。他にも和算家・天文家・漢学・音楽理論家でもあった中根元圭も詳しく述べている。中根の楽律研究を高く評価。狩野自身も音楽の基礎理論に関心を持ち、それが中根の「律原発揮」を発掘する導因となり日本音響物理学に功績をもたらしている。のち蒐集した西洋楽譜を東京音楽学校に寄贈した。中根の孫弟子の経世家(経済思想家)の本多利明にも注目し「我国航海術の元祖」と評価した。また江戸時代の思想家の安藤昌益の「自然真営道」の写本を発見。その思想を世に詳しく研究発表(1928)をした。このように、江戸時代の自然科学思想史に関心をもち人物紹介に尽力した。
 病気のため学長を二年間務め辞任。回復後、東宮(昭和天皇)の教育掛に推されたが固辞し、東北帝国大学総長として推薦もされたがそれも断った。その後も官途に就かず、鑑定業を営む。
 大正初めころ、後輩の山本修三の鑢(やすり)会社に出資したが多額の負債を背負うことになり、研究のために蒐集してきた貴重な蔵書を売却することになった。この状況下で、東北大学総長であった澤柳政太郎は貴重な日本科学史や思想史関連書物およそ十万冊(108,000点)を受け入れ東北大学が「狩野文庫」として所蔵している。近年、九州大学で医学・数学・天文学などの書籍類(7,500冊)が見つかっている。
 '19(T8) 姉の久子と共に、書画鑑定業「明鑑社」を創業。その鑑定学は科学的鑑定理論に立脚して、科学的方法により実施。「狩野先生のところへ持っていくと何でもにせものになってしまう」と評判になるくらい、科学的鑑定法はその真価を発揮した。
 '35(S10) 『日本医事新報』から竹内文献の文書の写真5枚の鑑定依頼を受け、これを偽造と回答した。翌年、岩波書店『思想』誌上で、それらをまとめた「天津教古文書の批判」(狩野論文)を発表。いわゆる「竹内文献」についての史料批判を行い、天皇制イデオロギーにまつわる迷信として偽書であると発表。竹内文献のシンパであった酒井勝軍(16-1-17)が唱えた日本のピラミッドやキリストの墓などを異説とし、古文書が近代人の贋作であることを徹底的にあばいた。これにより鑑定学の真価を十二分に証明。日本の鑑定学を確立した。なお、これは裁判にまでなり、'42 竹内文書否定派の急先鋒の検察の証人として出廷して証言もしていたが、その翌年に狩野は亡くなったことと、当時は戦時下であり、天皇に関わる批判は不敬罪でもあったため、本当の真意は不明である。
 狩野は絶対なるものとしての宗教をいっさい認めなかった。しかし、その宗教にすがらざるを得ない人たちの境遇に対しては、きわめて同情的であった。同時に狩野は、マルクス主義の唯物論的、科学的性格に対しての理解を示しつつも、マルクスを教祖として盲信するような、教条主義に対しては、はっきりとこれを批判した。
 '41 日本科学史学会が創立され、顧問として名を連ねる。翌年刊行された『日本科学古典全書』の監修を務めた。個人著書は生涯1冊も刊行しなかった。胃潰瘍のため逝去。享年77歳。葬儀は青山斎場で神式により執行された。
 近代日本の中で「自己の哲学」によって生きた「真正の哲学者」と称された。また啓蒙的合理主義をつらぬいた百科全書的思想家で、日本の自然科学思想史の先駆的研究者とも称された。没後、狩野を研究する者が多く出、安倍能成の編『狩野亨吉遺文集』(1958)、鈴木正『狩野亨吉の研究』(1970)、青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』(1974)などがある。

<コンサイス日本人名事典>
<小学館 日本大百科全書>
<精選版 日本国語大辞典>
<「真正の哲人・狩野亨吉」日本ペンクラブ 電子文藝館編輯室>


墓地

*墓所には7基建つ。正面は父の墓「狩野良知之墓」、裏面は生没年月日が刻む。墓所右側に4基、墓所左側に2基。墓所右側奥から母の水野千代子(天保8.11.11-M10.9.17)の墓「狩野良知妻水野千代子墓」、裏面は略歴が刻む。その右隣りは題字「狩野良安妻山田氏美津之墓」とあり、祖母の狩野水子の略歴が刻む。その右隣りが兄の「狩野元吉墓」、裏面は略歴が刻む。その右隣りは姉の前小屋久子の子「前小屋定吾墓」、左面「明治三十六年八月十三日 享年十九」。墓所左側奥から「狩野亨吉墓」、裏面は生没年月日が刻む。その左通りは「狩野家之墓」、裏面「昭和三十五年二月 狩野英 / 同 新 建之」。左右面が墓誌となっており、養子縁組した兄の息子の狩野剛太郎、妻の幾代、その子息家族たちが刻む。姉の前小屋久子の刻みがない。

*大館の墓所から、1933.6(S8)狩野亨吉が多磨霊園に移築。狩野亨吉の墓は、1958 有志の募金を募り不足分を岩波書店が負担して建てられた。岩波書店の創業者である岩波茂雄は狩野亨吉の教え子であり、岩波茂雄の女婿であり岩波書店の支配人だった小林勇は、狩野亨吉をモデルに小説「隠者の焔」を発表している。

*1961(S36)大館市立中央図書館(大館市立栗盛記念図書館)の正面に安倍能成揮毫の狩野父子顕彰碑が建つ。


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