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かのう こうきち

狩野亨吉

かのう こうきち

1865(慶応1)〜 1942(昭和17)

明治・大正・昭和期の思想家、教育者

埋葬場所: 8区 1種 13側 21番

 四高・五高教授をへて1898(M31)−高校長となり〈−高健児〉の校風をつくる。 1906京大文科大学長として幸田露伴らを招き独特の学風を作ったが2年にして辞職、 以後民間にあって書画の鑑定に脱俗の生活をおくる。 思想家として江戸時代の自然科学思想史に関心をもち人物紹介に尽力した。 また「天津教古文書の批判」により天皇制イデオロギーにまつわる迷信を批判。 晩年は窮乏のうちに病没した。

<コンサイス日本人名事典>


墓地

*墓所中央に父の狩野良知の墓石、やや右後には母であり良知の妻の水野千代の墓、正面左側に亨吉の墓石が建ち、 向き合わせに建っているのが兄の元吉の墓石。墓域の右手奥に苔蒸して立つのが亨吉祖母の狩野水子(美津)の墓である。 なお、正面左側手前に狩野家代々の墓が建つ。


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