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とさか じゅん

戸坂 潤

とさか じゅん

1900.9.27(明治33)〜 1945.8.9(昭和20)

昭和期の哲学者、評論家、日本の代表的な唯物論哲学者

埋葬場所: 25区 1種 18側 32番

 東京神田出身。誕生する前に父が病没し、母の久仁が病身で授乳できなかったため、乳母とともに母方祖父母の住む石川県羽咋郡東増穂村里本江に5歳まで在住。以降は母と東京神田に戻る。
 1918(T7)物理学者を志し第一高等学校に入学したが、'21 京都帝国大学文学哲学科に編入し、'24 卒業。大学院に進み、京都高等工芸学校、同志社女子専門学校、神戸高等商業学校で講師を務めた。一年間、陸軍少尉として兵役につき、'29(S4) 大谷大学教授となる。マルクス主義世界観として学問論やイデオロギー論を研究した。
 '31 上京し法政大学講師となる。'32 三枝博音・永田廣志(5-1-47)らと唯物論研究会を創立し事務局長になる。軍国主義に抵抗し科学的精神を擁護・普及運動に取り組む。初め新カント主義の立場であったが、空間論の研究を進める中で唯物論の立場に移り、日本の代表的な唯物論哲学者として活動した。
 唯物論(ゆいぶつろん)とは宇宙の本質は物質であって、精神は物質に規定されると主張する説のことである。「あらゆる物事の変化は、先行する物質的条件と、それを含む法則性をもとにして決定される」という、存在する事物に対する因果律の支配を認める考え方である。簡単にいえば「何事にも原因がある」ということで、これにより人間の自由意志をまったく認めないか、さもなければなんらかの法則性に従うものとみる。という哲学的考えのことである。
 「唯物論研究」創刊号を発刊。『京都学派の哲学』発表し、「京都学派」という呼称を最初に与えた人物として知られる。以後、批評論文を精力的に執筆。'33『無の論理」は論理であるか』発表したが、同年 法政騒動が起き教養学部辞職、余波は続き、翌年、法文学部解職、そして、'34 思想不穏を理由に法政大学講師を免職させられた。更に、'35 検挙された。加えて。'38 唯物論研究会は自主的な解散を強いられ機関紙も廃刊される。それでも後継組織により雑誌「学芸」を発行していたが、同.11.29 発禁処分を受け、治安維持法により検挙された。この間、『唯物論全書』『科学論』『日本イデオロギー論』『現代唯物論講話』を刊行。
 '40.5 起訴されるも、同.12.8 保釈出所。'41以降は上智大学内カトリック大辞典編纂所につとめていた。同年、裁判で懲役刑の判決が出るが控訴、その後も判決が出るたびに上告を繰り返すも、'44.3 大審院裁判で上告棄却で刑が確定した。しかし歯の治療のため延期願を出し粘るが、同.9.1 東京拘置所へ下獄。'45.5.1 空襲のため長野刑務所へ移送される。同.7.23 栄養失調と疥癬のため急性腎臓炎を発病。終戦一週間前の8月9日に獄中で亡くなった。享年44歳。終戦後、同.8.26 自宅で告別式が挙行された。

<コンサイス日本人名事典>
<日本人名辞典>
<日本近現代人名辞典など>


墓所

*墓石は和型「戸坂家之墓」、裏面「一九九一年七月吉日 戸坂海 建之」。左側に墓誌が建ち、戸坂潤から刻みが始まる。次の刻みは、母の久仁(1952.4.8没)で、東京看護婦会会長を務めた。次に後妻のイク(1992.4.15歿)が刻む。

*1926.12 岡田充子と結婚。'28.12 長女の嵐子が誕生。'30.7.10 妻の充子が死去。'31.12 小曽戸イクと再婚。'33.8 長男の海が誕生。'36.1 二女の月子が誕生。



第413回 軍国主義に反対 日本の代表的な唯物論哲学者 戸坂潤 お墓ツアー


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