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かのう りょうち

狩野良知

かのう りょうち

1829(文政12.5.4)〜 1906.12.14(明治39)

幕末期の武士、家老、漢学者、明治期の内務省官吏

埋葬場所: 8区 1種 13側 21番

 出羽国秋田郡大館町(秋田県大館市)出身。狩野家はもともと山形を本拠地とする最上氏に仕えた武家である。最上氏が江戸幕府によって改易されたのち、久保田藩(本城は久保田城)の支城があった大館の佐竹西家に仕えた。大館城代組下久保田藩士の狩野与十郎良安、歌人の狩野水子(同墓)の長男。弟に漢学者の狩野徳蔵(旭峰)がいる。幼名は国松、のちに深蔵を名乗った。字は君達、号は羽北。良知のヨミを「よしとも」とも。
 藩校明徳館に学び、江戸に出て陽明学者の佐藤一斎の私塾や、昌平黌(しょうへいこう)などで学ぶ。1854(安政1)尊王開国論を唱え『三策』を著した。1853(嘉永6)北国旅行中に大館へ立ち寄った長州藩士の吉田松陰によって『三策』が持ち帰られて、後年、松下村塾より出版される。
 戊辰戦争では、久保田藩は新政府軍へ与したため、周囲の奥羽諸侯との間で秋田戦争が勃発したが、この際に大館城代の家老であった良知は明徳館詰役支配に抜擢され、庄内藩との戦闘に出陣。由利郡の本荘藩領へ進軍したが、大館城は盛岡藩の攻撃によって落城し、良知の息子の亨吉(同墓)は姉に背負われて弘前藩領まで避難している。
 維新後は一家で上京し、1874(M7)内務省に入る。権少書記官などを歴任した。1884.8.30 正7位に叙せられた。1886 退官後は、秋田県出身の文人や知識人の相談役として活躍した。1891『支那教学史略』3巻を刊行。
 1896 秋田市の都市公園である「千秋公園」を設計した。千秋(せんしゅう)の由来は、秋田の「秋」に長久の意の「千」を冠し、長い繁栄を願って命名。他にも秋田魁新報の前身である「聚珍社」「遐邇新聞」の命名者としても知られる。千秋公園から徒歩5分ほどの距離に生家があり、生家は後に政治家の石田博英の邸宅となり、現在は石田ローズガーデンとして市民に親しまれている。その入り口の壁に、「狩野良知・亨吉父子生家之跡」と書かれたプレートが嵌め込まれている。病のため逝去。享年77歳。

<幕末維新江戸東京史跡事典>
<秋田人名事典>
<講談社日本人名大辞典>


*墓所には7基建つ。正面は「狩野良知之墓」、裏面は生没年月日が刻む。墓所右側に4基、墓所左側に2基。墓所右側奥から良知の妻の水野千代子(天保8.11.11-M10.9.17)の墓「狩野良知妻水野千代子墓」、裏面は略歴が刻む。その右隣りは題字「狩野良安妻山田氏美津之墓」とあり、良知の母の狩野水子の略歴が刻む。その右隣りは良知の長男「狩野元吉墓」、裏面は略歴が刻む。その右隣りは良知の次女の前小屋久子の子「前小屋定吾墓」、左面「明治三十六年八月十三日 享年十九」。墓所左側奥から良知の次男「狩野亨吉墓」、裏面は生没年月日が刻む。その左通りは「狩野家之墓」、裏面「昭和三十五年二月 狩野英 / 同 新 建之」。左右面が墓誌となっており、良知の孫・元吉の長男・亨吉の養子の狩野剛太郎、妻の幾代、その子息家族たちが刻む。前小屋久子の刻みがない。

*大館の墓所から、1933.6(S8)狩野亨吉が多磨霊園に移築。

*父の狩野与十郎良安の号は間斎、致仕して良夢。字は君修。狩野間斎という名でも馳せており、遺著『間斎集』がある。父の墓石はない。

*1961(S36)大館市立中央図書館(大館市立栗盛記念図書館)の正面に安倍能成揮毫の狩野父子顕彰碑が建つ。

<秋田人名事典108頁>
<五輪塔様より情報提供>


墓地 水野千代

*墓所中央に良知の墓石、やや右後には妻の水野千代の墓、正面左側に次男の亨吉の墓石が建ち、 向き合わせに建っているのが長男の元吉の墓石。墓域の右手奥に苔蒸して立つのが母の狩野水子(美津)の墓である。 なお、正面左側手前に狩野家代々の墓が建つ。


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