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いおき たけしろう

五百木竹四郎

いおき たけしろう

1887(明治20)〜 1942.11.26(昭和17)

明治・大正・昭和期の西洋料理人、実業家(精養軒)

埋葬場所: 8区 1種 17側

 愛媛県北宇和郡(宇和島市)出身。魚の行商人をしていた父の4男として生まれる。兄の五百木熊吉は後に西洋料理業界で名人と呼ばれる人物。10歳の時に父を亡くし、貧しい家系を支えるため14歳の時から行商を始め家計を助ける。16歳の時に兄の熊吉を頼りに横浜に出、兄の指導を受けて西洋料理人を志すため修業を始める。
 兄の熊吉は横浜の居留地の外人相手に人力車夫をしていたが、客の外人に気に入られ、外国婦人からお菓子やケーキを貰うようになったことで西洋料理に興味持つ。外人屋敷の使用人としてフランス語や洋食を学び、居留地五番地のクラブホテルでフランス人シェフの下で修業を積み日本人料理長となる。この時期に竹四郎が来て熊吉の下で修業を行い、兄に劣らぬ才能を発揮して頭角を現していった。
 イギリス公使館の料理長に抜擢される。この頃、小説『天皇の料理番』によると、主人公である秋山徳蔵が華族会館で修業していた時に竹四郎に可愛がられ、竹四郎の紹介で精養軒に入るという場面が描かれている(創作や脚色も有りどこまでが事実かは不明)。
 1907(M40)熊吉が神戸のトア・ホテル開業に伴い赴任し料理長に抜擢される。竹四郎は東京の築地精養軒に入社し、料理だけでなく経営面も参画した。料理人の腕前だけでなく経営者としても力を発揮し重役に列せられた。大正期に支配人兼料理長の西尾益吉と北村重昌社長ら経営陣との対立が起こり、竹四郎は社長側に付き、結果的に内部クーデターに負けた西尾が去ったことで、竹四郎は精養軒の料理長に就任した。しかしすぐに、兄の下で一緒に修業を積んだ神戸オリエンタルホテル料理長であった鈴木敏雄を招聘し、料理長の座を譲り、自身は経営者の道を歩むこととした。
 '15(T4)東京駅構内に鉄道院が建設した東京ステーションホテルの経営面を精養軒が任され開業し、初代総支配人に就任(〜'33。以後は鉄道省直営となり東京鉄道ホテルに改称)。'21欧米ホテル視察を経て、'22築地精養軒社長に就任した。この時、35歳である。手腕を発揮し、新しい経営方針を掲げ、各地に次々と支店を増やしていった。
 '23関東大震災で本店である築地精養軒が被災し再建のめどが立たなくなる。本店を上野精養軒に移し、再興を目指していたが、株主との意見が合わず進展が見れないと考え、'30(S5)丸ビル精養軒、松島パークホテルの経営権を精養軒から譲り受け、精養軒を退社し独立の道に入る。同年、すぐさま丸の内会館を開業し、'33長良川ホテルを開業、'34札幌グランドホテルの経営にも関与し、更に香港やシンガポールにも進出すなど、水を得た魚のように幅広く事業を手掛け、日本のホテル業界に多大なる貢献を成した。
 料理人としての腕も良かったが、実業家としての力も発揮し西洋料理を日本に定着させたひとりである。また、優秀なコックを育て、築地精養軒と並んで西洋料理店の双璧と言われた「東洋軒」創業者である伊藤耕之進と並び、日本の西洋料理界の「育ての親」と称された。享年55歳。

<西洋料理人列伝など>


墓所 墓所

*墓所には三基。真ん中に和型「五百木竹四郎墓」、右に和型「五百木千恵子墓」、左に和型「五百木家之墓」。「五百木竹四郎墓」の墓石左面、戒名と没年月日と享年が刻む。戒名は豪徳院釋慈雲居士。裏面は「昭和三十六年七月建之」。「五百木千恵子墓」の墓石左面、「戒名は順徳院釋恵雲大姉 昭和二十年三月廿四日歿 行年三十六歳」。裏面「昭和二十三年十一月 五百木一雄 建之」。「五百木家之墓」の墓石右面に「釋順督信士 大正二年十一月十四日」、裏面「大正十年九月」。墓所左側に墓誌が建つ。長男の五百木一雄(S49.8.6 行年63:浄徳院釋一道居士)は、1960第17回ローマオリンピックの男子ホッケー監督として参加(結果は14位)。他に当才で亡くなった遺児二名の他、鑄谷公美子(いたに)、五百木喜代の名が刻む。

※多くの人名辞典は没年を昭和18年(1943年)としているが、墓石には昭和17年(1942年)と刻むため、こちらを優先する。なお、墓石には享年は五十六才と刻む。これは数え年であると考え、ここでは享年55歳とする。

*竹四郎が精養軒を退職した4年後、1934.9(S9)精養軒社長に就任したのが福島茂富(15-1-2)。


【日本の西洋料理の歴史と多磨霊園】
 明治維新後、日本海軍はイギリス海軍を手本に近代化をしたが、兵術だけでなく食事作法にも洋食を取り入れた。外国人と接する機会が多い海軍軍人は西洋式のマナーや食事作法を身に付ける訓練も行ったが、同時に、健康や栄養上の観点から西洋食の優位性を認め、海軍士官は精養軒で食事をすることを義務付けました。
 江戸時代まで肉料理をほぼ食さなかった日本人に福沢諭吉は牛鍋を推奨、横河秋濤ら医学者たちが、西洋文化に抵抗を感じる日本人に対して「開化の入り口」として西洋料理から薦める啓蒙活動を行っていた。当時は栄養失調症(ビタミンB1の不足)である脚気による死亡率が高く、海軍医の高木兼寛は脚気の原因は食事内容にあると考え兵食改革を行い、「洋食+麦飯」にしたことで海軍内での脚気の発生率が下がった。後に鈴木梅太郎(10-1-7-8)がオリザニン(後のビタミンB1)の発見によって科学で証明していくことになる。
 西洋食が一般大衆に広がったルートは、日本海軍からもたらされ、精養軒が大きく関わっていた。もっとも、海軍が洋食を日常食とさせたことが大きく、軍用食は素材の保存性が高く、大量調理が可能で、栄養価が高く、かつ低コストであったことが、一般家庭に普及したきっかけとなった。一般家庭の大いなる後押しをしたのが、北川敬三(20-1-39)であり、多くの料理本を手掛けた。北川は五百木竹四郎の兄の熊吉の弟子で、精養軒料理長を務めた人物。
 一般家庭普及の代表的な西洋料理がカレーであり、イギリス料理のカレーを参考に日本独自のアレンジした「ライスカレー」(海軍カレー)が誕生し、海軍では毎週金曜日に必ず出す鉄板メニューとなった(航海中の曜日感覚を整えるために金曜日に固定した説有り)。イギリスのカレーはシチューの一種でありライスはあくまでも副菜という考え方(具がメイン)。日本人はライスが主食であるためカレーソースをかけるという考え方。ちなみに、本場のインドカレーを日本に紹介したのは新宿中村屋にかくまってもらっていたラス・ビハリ・ボース(1-1-6-12)が相馬愛蔵(8-1-5-3)に伝え売り出したのが始まり。
 北海道開拓で明治中期頃に「じゃがいも」が大量栽培に成功し全国に普及。それまでの日本は「芋」が主で、じゃがいもはオランダ人が持ち込んだため「オランダ芋」と呼ばれ貴重だった。じゃがいもの普及により、古くからヨーロッパで広く食べられていた「コロッケ」が日本人の胃袋を鷲掴み。もともと現地では「クロケット」という名前であるが、日本人には「コロッケ」として広まり定着。
 じゃがいもの逸話としては、東郷平八郎(7-特-1-1)が舞鶴鎮守府の長官だった時に、欧州で食べたビーフシチューが日本でも食べられないものかと、部下に作らせたところ、部下はイメージして試行錯誤でつくってできたのが「肉じゃが」の誕生となったといいます。

<日本の西洋料理の歴史など>



第257回 日本に西洋料理を定着させた人 五百木竹四郎 お墓ツアー
西洋料理界 育ての親


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