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ふくしま しげとみ

福島茂富

ふくしま しげとみ

1888.12(明治21)〜 1950.2.15(昭和25)

大正・昭和期の実業家(精養軒)

埋葬場所: 15区 1種 2側

 山梨県八代郡一宮村出身。一宮村長の須田耕の三男として生まれる。旧姓は須田。1923(T12)福島家の養子となり家督を相続。生家の須田家には根津財閥創始者の根津嘉一郎(初代:15-1-2-10)の姉が嫁いでいる。
 資性剛邁にして自ら持するところ高く、若くして実業界に入り、大日本麦酒の前進でカブトビールで有名であった「かぶと麦酒会社」の社員となった。親戚の根津嘉一郎に見いだされ、根津財閥の経営に携わる。以後、日本麦酒、日本土地証券、日本精機、武蔵野鉄道、日本観光、東宝映画、横山工業、富国徴兵(徴兵保険会社・富国徴兵保険)、大平生命などの重役を歴任した。
 '34.5.13(S9) 200万円の負債で経営危機に陥った我が国最古の西洋料理店の精養軒の社長に就任(第7代目)。精養軒を立て直すために根津嘉一郎が増資50万円を引き受け更生に乗り出すことになり、福島がその経営者に推された。また根津嘉一郎も相談役に就いた。取締役には後に富国徴兵保険相互会社社長となる吉田義輝、佐竹次郎、朝日麦酒社長の山本為三郎(14-1-2)らが就任した。福島は就任と同時に資本を減少させ資本金を33万円とした。その上で増資優先株を発行。その結果、総株数は1万7千株(旧株6666株、新株1万334株)で、資本金は85万円になった。株主数は個人32名と3法人で、このうち新経営陣である根津嘉一郎関係者は15名、所有資本は7634株で全体の44.9%となった。'35.11 新経営陣が66.7%と7割弱を占めるようになり、名実ともに「根津精養軒」へと移行した。
 福島は全従業員の精神改造にも取り組んだ。これまで以上に緊張して働くことはもちろん、出入り業者との癒着を排除した。業者には優良品を安く納入することを了承させた。以降は、右肩上がりで利益を計上できるようになり立て直しに成功。1937年度の売上は208万円と200万円台の大台に乗せ、1940年度には300万円を突破した。
 精養軒社長の傍ら、富国生命監査役、東海汽船および東海観光の取締役を兼ねる。戦争により多くの営業所を失ったが、1949(S24)上野精養軒をはじめ、日本橋、王子名手の滝、精進ホテル、名古屋、鉄道協会、丸の内の7つの営業所を設けるまでに回復させた。また、米国第八軍可令官の委嘱により、数多くの施設を経営し国際親善に貢献。
 '50.2.15 たまたま横浜に赴いた際に病を発し、精養軒社長在任のまま逝去。享年61歳。これに伴い、妻の福島静子(同墓)が精養軒 8代目社長に就任した(静子はS25.2.15-S54.4.27の29年間社長を務める)。なお静子は安房勝山藩最後の藩主で子爵の酒井忠美(4-1-21)の娘。

<精養軒150年史>
<墓誌碑など>


墓所 福島茂冨君之碑

*墓所には3基建つ。墓所正面に和型「福島茂富 / 室 静子 之墓」。前面左には「増上寺性譽辨匡」と刻む(書は浄土宗の増上寺の椎尾弁匡)。裏面「昭和二十五年九月二十三日建之」。左面には二人の戒名と歿年月日が刻む。福島茂富の戒名は福光院殿有譽茂山永富太居士。福島静子の戒名は德光院殿芳譽湛水貞静大姉。右面には須田芳子(T11.7.26歿・行年24歳:青蓮院芳譽知岸妙薫大姉)が刻む。正面墓石の左側に並んで八角形の石柱塔が建つ。墓所左側に和型「福島家之墓」、「昭和五十八年九月彼岸 福島幸雄 建之」。左面が墓誌となっており、福島茂富と静子の養子で第10代精養軒社長の福島幸雄(H14.1.9没・行年66才)が刻む。戒名は静光院音譽幸道居士。墓所右側に和型「心誠院嘉譽貞操良薫大姉」、裏面「昭和四年二月 福島成富 建之」。

*墓所入口右側には「福島茂富君之碑」が建つ。碑の裏面「昭和二十六年三月二十一日奉献」と刻み、根津嘉一郎を筆頭に30名の精養軒関係者の名が刻む。上野精養軒専務取締役や横浜精養軒社長を務めた義弟(妻の妹の夫)の三井慶夫(11-1-10)の名も刻む。なお、根津嘉一郎の墓所は真裏である。


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