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ふくしま しずこ

福島静子

ふくしま しずこ

1900(明治33)〜 1996.8.5(平成8)

昭和期の実業家(精養軒)

埋葬場所: 15区 1種 2側

 千葉県出身。安房勝山藩最後の藩主の酒井忠美(4-1-21)の長女。根津財閥の経営に携わっていた福島茂富(同墓)と結婚。子宝に恵まれなかったため、幸雄(後の精養軒社長:同墓)を養子として迎える。根津財閥創始者の根津嘉一郎(初代:15-1-2-10)とは親戚。
 1934.5.13(S9) 夫の茂富が西洋料理の草分け精養軒の経営立て直しのために社長に就任。'50.2.15 横浜に赴いていた茂富が病を発し急逝。これに伴い、静子が精養軒 8代目社長に就任した。'85(S60)相談役に退くまで、社長、会長として35年にわたり精養軒の「のれん」を守り抜いた。
 社長時代は午前4時起床、自宅の庭の草取り、掃除、洗濯を片付けて会社に出社することを日課としていた。社長であってもほころんだ足袋を自分でつくろって履くという質素な生活ぶりで、旅行や芝居見物にもあまり行かなかったという。
 同業他社が派手な宣伝広告を打つ中、その分の経費で内容を充実させ、お客様の口コミが自然に広がることに重きを置き、「より良い内容、より良きサービス」をモットーに堅実で地味な経営を貫いた。人目に立つことを好まず、社長の業務を全面的に支えていたのは義弟(妹の夫)の三井慶夫(11-1-10)であった。
 '76 上野精養軒は開業100周年を迎えた。その際、記念式典を予定していたが、静子はその式典を取り止め、'77.1 台東区役所に突然訪れ、長年お世話になった台東区にと現金1000万円を寄付した。事前に予告もなく突然の訪問だったため、区役所側も驚き、内山榮一区長も不在であった。帰庁後に話を聞いた内山榮一区長は精養軒にあわててお礼に飛んでいくというハプニングとなる。台東区は精養軒の同意を得て、この寄付金を新幹線誘致地域整備基金に入れ、上野駅誘致対策費に充てた。
 '79.4.27 会長に就任し、社長は千葉幸男が就任。'85.4.26 相談役に退き、千葉が会長、社長には福島茂富と静子の養子の福島幸雄(同墓)が第10代社長として就任した(〜'95.4.27)。
 静子は1955(S30)頃から東京六本木の屋敷に苦学生を住まわせ面倒をしていた。'87.5.28 私財2億円を投じ、東京都教育委員会の認可を得て財団法人として「福島育英会」を設立し、理事長に就任。福島育英会は人材育成のため、音楽関係大学生を対象に修学に困難な学生への奨学金を給与、海外での学修助成など、我が国音楽界の発展のために寄与する目的とした(現在は一般社団法人)。静子の後は福島幸雄が理事長を継ぎ、自身も東京藝術大学の卒業生でもあったことから、奨学事業を拡大させていった。
 享年95歳。遺言により静子所有の「福島ビル」(1950相続)を福島育英会に寄贈させ所有権を移転させた。なお静子は蒔絵作品のコレクターでもあったが、'80 根津美術館に生前寄贈している。

<精養軒150年史>
<一般社団法人福島育英会 組織概要など>


墓所 福島茂冨君之碑

*墓所には3基建つ。墓所正面に和型「福島茂富 / 室 静子 之墓」。前面左には「増上寺性譽辨匡」と刻む(書は浄土宗の増上寺の椎尾弁匡)。裏面「昭和二十五年九月二十三日建之」。左面には二人の戒名と歿年月日が刻む。福島茂富の戒名は福光院殿有譽茂山永富太居士。福島静子の戒名は德光院殿芳譽湛水貞静大姉。右面には須田芳子(T11.7.26歿・行年24歳:青蓮院芳譽知岸妙薫大姉)が刻む。正面墓石の左側に並んで八角形の石柱塔が建つ。墓所左側に和型「福島家之墓」、「昭和五十八年九月彼岸 福島幸雄 建之」。左面が墓誌となっており、福島茂富と静子の養子で第10代精養軒社長の福島幸雄(H14.1.9没・行年66才)が刻む。戒名は静光院音譽幸道居士。墓所右側に和型「心誠院嘉譽貞操良薫大姉」、裏面「昭和四年二月 福島成富 建之」。

*墓所入口右側には「福島茂富君之碑」が建つ。碑の裏面「昭和二十六年三月二十一日奉献」と刻み、根津嘉一郎を筆頭に30名の精養軒関係者の名が刻む。上野精養軒専務取締役や横浜精養軒社長を務めた三井慶夫(11-1-10)の名も刻む。なお、根津嘉一郎の墓所は真裏である。


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