メイン » » » 酒井忠美
さかい ただよし

酒井忠美

さかい ただよし

1858.12.4(安政5.10.29)〜 1923.3.13(大正12)

幕末期の最後の安房国勝山藩主、
明治期の加知山県知事、子爵

埋葬場所: 4区 1種 21側

 安房国(千葉県安房郡)出身。武家1万2000石。勝山藩の第8代藩主の酒井忠一の長男として生まれる。幼名は生次郎。1860(万延1.11.13)父が死去したため、3歳で家督を継いだ。
 1867(慶応3)9歳の忠美は朝廷からの召命に応じず新政府から疑われる。これは藩内が佐幕派と尊王派に分裂抗争していたためだが、翌年、近隣諸藩に併せて新政府に恭順。戊辰戦争では東海道軍より房総の旧幕府軍の鎮撫を命じられるが、閏四月、遊撃隊・請西藩主林忠崇の連合軍に協力を求められて雑兵を出した。そのため新政府より咎められるが、事なきを得て戊辰戦争を乗り切った。従5位下、大和守に叙任する。
 1869(M2.5) 同名の藩(越前勝山藩)が他にあるため、加知山藩と改名する。同.6 版籍奉還により知藩事となるが、1871(M4.7.14) 廃藩置県で免官され、新たに加知山県知事となる。しかし、同.11 廃県により免職となった。1879 隠居。
 1884.7.8(M17)忠美は隠居していたため、長男の酒井忠勇(ただとし:1879生)が子爵を襲爵したが、早くに没したため、二男の忠尚(1890-1925)が継承するも、1899 爵位を返上した。享年64歳。

<幕末維新江戸東京史跡事典>
<講談社日本人名大辞典>


*墓石は和型「酒井家之墓」。妻の久宇は若狭小浜藩の第12代、第14代藩主の酒井忠禄の娘。長女の静子は福島茂富(15-1-2)に嫁ぎ、茂富は西洋料理の草分け精養軒を立て直した社長。茂富没後は静子は精養軒の社長を務めた。また二女の富美子は上野精養軒専務取締役や横浜精養軒社長を務めた三井慶夫(11-1-10)に嫁いだ。

*貝塚青松寺に葬られたが、1927.11(S2)多磨霊園に改葬された。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・さ行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。