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いけだ いちろう

池田一郎

いけだ いちろう

1923.3.14(大正12)〜 1944.10.26(昭和19)

昭和期の陸軍軍人(大尉)

埋葬場所: 14区 1種 1側 4番

 東京出身。父方祖父は医学博士・男爵の池田謙齋。母方祖父は陸軍大将・子爵の岡澤精。父は池田友五郎(謙齋の5男)・母は雪(岡澤精の5女)(共に同墓)の長男として生まれる。
 学習院初、中等科を経て、1937.4(S12)東京陸軍幼年学校に入校。'42.12陸軍士官学校卒業(56期)。同期に戦後軍事史学者になる阿南惟敬(13-1-25-5:結核のために留年したので58期で卒業)らがいた。航空少尉に任官。翌年、明野陸軍飛行学校教官となる。
 '44.3戦況悪化の大東亜戦争に加担するため、所沢に於いて新戦斗機部隊の編成に加入。同.8陸軍中尉に進級。同.9.29山下奉文(16-1-8-6)大将が第14方面軍司令官に着任し、一郎も命がくだり比島に移動。同.10.20からアメリカ軍と激しい陸上戦闘が始まったレイテ島の戦いに参戦。陸軍は連日、レイテ制空、爆撃掩護、船団直衛、艦船攻撃等に当たり、1日4回以上、8時間以上の出動で操縦員の疲労は極限まで達していた。同.10.26 タクロバン飛行場に集結していた在地の中小型機に対して、10数機でタ弾攻撃を行い多数撃破(タクロバン攻撃)したが、一郎は壮烈な自爆戦死す。享年21歳。没後一階級特進し大尉。正7位 勲6等単光旭日章。

<墓誌などより>


墓所 お墓の拡大

*墓所には三基建つ。真ん中の墓石は和型「陸軍大尉 池田一郎 之墓」の刻みの左右に「池田友五郎」「池田雪」と両親の名が刻む。左面から池田一郎の略歴が刻み、裏面は没年月日・行年・勲功などの刻みと、両親の没年月日。右面は「性質温和にして明朗。両親に孝、二人の妹を愛し、学友には親切。幼年学校に於いて指導生徒となり、将来は将軍たる素質ある理想的人物なりと評せらる」という刻みの後に、池田一郎の辞句が刻む。

永久に吾生きぬべし雪の上 善き命と君に捧げて 池田一郎 辞句


*墓所左側は和型やや小さめの墓石は池田友五郎と雪の子で早世した三名の名(左から早死し俗名がなく戒名だけの子、三歳で亡くなった桃子、十三歳で亡くなった華子)が刻まれた墓石。墓所右側は和型「佐藤家之墓」。墓所右手前に墓誌がある。墓誌には「此の墓所は故池田一郎の戦死に伴い父池田友五郎が建墓したもので、友五郎並びに母雪の亡き後は友五郎三女の佐藤輝子が引き継ぎ、夫 俊夫と共に平成九年九月佐藤家の寿陵を建碑したものである」と刻む。

*池田謙齋の墓は寛永寺谷中墓地。岡澤精の墓は青山霊園(1イ7-8)。


【レイテ島の戦いに従事した多磨霊園に眠る主要人物たち】

山下奉文(16-1-8-6):フィリピンの第16方面軍司令官
植村眞久(12-1-21):レイテ島東方海面の米機動部隊に特攻、散華
栗田健男(21-2-57-26):捷一号作戦(レイテ沖海戦)では機動部隊の指揮を取り、小澤艦隊の囮作戦により目的達成(レイテ湾突入)の直前で、「謎の反転」をしたことで知られる。
宇垣 纏(20-1-8-18):あ号作戦の後に、レイテ 沖海戦に従事。
大岡昇平(7-2-13-22):原体験を戦後「レイテ戦記」として執筆した.。


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