東京都出身。立教大学経済学部商学科在学中はサッカー部主将として活躍。学徒出陣により、'43.9.23繰上げ卒業。
海軍に入隊し、第13期飛行予備学生となり、三重航空隊(基礎教程)に属す。
翌年.1.7高雄航空隊(練習教程)を経て、3.24大村航空隊、5.31海軍少尉任官、練習航空隊特修科学生となり、7.25佐世保航空隊に配属。
8.1比島セブ基地へ進出。9月に休暇を許され、帰郷し生後三ヶ月の愛児と面会、手紙を残し戦場に戻る。
10.26前日の神風特攻隊32機の大戦果を受け、急きょ追加編成されたセブ島の大和隊は爆戦5機、直掩隊3機。
これを二隊に分け、その一隊を植村が指揮することとなった。神風特別攻撃隊大和隊、第一隊隊長として出撃。
目標は前日急襲撃破したT・L・スプレイグ艦隊の残存部隊。米軍側は前日の攻撃を受け、残存戦闘機に加え、他の艦隊からの補充を合わせ、全戦闘機60機を上空に配置して、日本機の攻撃に備えた。
植村隊3機は、60機の米軍戦闘隊と遭遇し、激闘。レイテ島東方海面の米機動部隊に特攻、散華。享年25歳。没後、二階級特進し海軍大尉となる。
なお、植村特効後、日本側は後続隊の3機が、空戦の隙を突いてスワニー、ペトロフ・ベイ突入に成功し、スワニーは連日の猛襲によって大破し、大和隊の活躍は楽観ムードの米海軍を戦慄させた。
戦後、第13期予備学生の遺書を中心にして取り上げた『雲ながれる果てに』で手紙が紹介される。
また、大岡昇平(7-2-13-22)の『レイテ戦記』で植村のことを触れている。
植村の戦死から22年後の'67(S42)、愛児であった娘の素子は父と同じ立教大学を卒業。
同年4月に父が手紙で約束したことを果たすため、靖国神社にて鎮まる父の御霊に自分の成長を報告し、母親や家族、友人、父の戦友達が見守るなか、文金高島田に振袖姿で日本舞踊「桜変奏曲」を奉納した。
素子は「お父様との約束を果たせたような気持ちで嬉しい」と言葉少なに語ったという。
*植村家の墓所内には、十字を刻む植村眞久の個人墓、洗礼名はポール。左側に『愛児への便り』の全文が刻む碑が建つ。
『愛児への便り』
素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入つたこともありました。
素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。
私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。
素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。
私はお前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのをみとどけたいのですが、
若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても決して悲しんではなりません。
お前が大きくなつて、父に会いたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれぱ、
必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思びます。
生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。
またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、
御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。
必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。
優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讃んで貰びなさい。
昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ
追伸、
素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。
だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。
*『フィリピン特攻』
体当たり攻撃隊、すなわち「神風特別攻撃隊」は比島沖海戦時が初出陣である。
1944(S19)10月20日、敷島・大和・朝日・山桜の四隊に区分され、二十四名の隊員
は第十期甲種飛行予科練習生を中心に選抜された。戦況悪化の連戦連敗の苦肉
の策に生まれた特攻は、自己の命を犠牲にして相手空母に突っ込む自殺行為で
ある。比島沖での特攻は翌年(S20)1月9日まで行われた。その後、特攻は沖縄戦
へと移行し、8月15日の終戦まで行われた。
フィリピン特攻での神風特別攻撃隊の出撃機数は424機。戦果は以下の通りだ。
撃沈--空母4、戦艦1、巡洋艦5、駆遂艦3、輸送船23
撃破--空母13、戦艦3、巡洋艦8、駆遂艦1、輸送船34
<日本陸海軍航空隊総覧(別冊歴史読本1991冬号)>
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