メイン » » » 栗田健男
くりた たけお

栗田健男

くりた たけお

1889.4.28(明治22)〜 1977.12.19(昭和52)

明治・大正・昭和期の海軍軍人(中将)、
レイテ沖海戦「謎の反転」

埋葬場所: 21区 2種 57側 26番

 茨城県水戸市出身。歴史学者で「大日本史」編纂員などで活躍した栗田勤(号は晦屋)の二男として生まれる。祖父は国学者・歴史学者の目次の表示・非表示を切り替えで著名な東京帝国大学教授の栗田寛(号は栗里)。
 1910.7.18(M43)海軍兵学校卒業(38期)。同期に稲垣生起(9-1-14:後の中将)、神山徳平(22-1-10-10:後の大佐)らがいる。同.12.1少尉に任官。様々な要職を経て、'32(S7)大佐に昇進し第十二駆逐隊司令に就任。'34 阿武隈艦長、翌年、水雷学校の教頭、'37 金剛艦長を経て、'38少将に進級し、第一水雷戦隊司令官に着任。'39 第四水雷戦隊司令官に任命された。
 '40 第七戦隊司令官に就任し、翌年より太平洋戦争が開戦。マレー作戦に参加。その後、ボルネオ攻略戦に参加。'42 アナンバス攻略作戦、パレンバン攻略を支援した。中将に昇進し、内地に帰還。同.6 ミッドウェー海戦に攻略部隊支援隊として参加するも撤退。同.7 第三戦隊司令官となりガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃作戦を指揮。作戦は戦艦を伴った砲撃作戦としては唯一の成功となった。南太平洋海戦に参加。翌年、ガダルカナル島撤収作戦であるケ号作戦を支援した。'43 勲一等瑞宝章受章。同.8 第二艦隊司令長官に就任。ろ号作戦に伴い、ブーゲンビル島逆上陸支援のため、第二艦隊主力を率いてラバウル入泊した際にラバウル空襲に遭遇した。
 '44.6 マリアナ沖海戦に参加。同.10 日本は捷一号作戦を発動し、栗田はレイテ沖海戦で第一遊撃部隊を指揮。栗田に課せられた作戦内容は、大和・武蔵を含む戦艦7隻を指揮する栗田の第一遊撃隊がレイテ湾に突入し、砲撃によって、兵員・物資を揚陸中の米攻略部隊を撃滅すること。第二遊撃隊は栗田艦隊を支援し、空母機動部隊が米機動部隊を北方へおびき寄せて敵の航空戦力を削ぐとしていた。しかし、栗田艦隊は、潜水艦の襲撃、シブヤン海海戦を経て艦隊は大損害を受けた。旗艦である重巡洋艦「愛宕」が潜水艦雷撃で沈没し、栗田は第二艦隊司令部を戦艦「大和」に移した。続くサマール沖海戦で敵機動部隊の内一つを撃滅したと判断し、再度レイテ湾突入に向かう。だが敵機動部隊を撃つとして反転。結局作戦目的を果たせず帰投した。この反転はのちに問題視され、「謎の反転」「栗田ターン」などと呼ばれている。
 当時の事とて艦隊同志の連絡が不備であり、敵国のチャーチルも回顧録のなかで「この戦場と同様の経験をした者だけが、栗田を審判することができる」と述べている。戦後、栗田中将の誤判断、勝負度胸の欠如などを責める意見が大勢を占めたが、栗田自身は一切の弁明をしなかった。
 「謎の反転」以後、'45より海軍兵学校の校長になるも、終戦を迎えた。
 '66(S41)栗田はともに戦った小澤中将を死の数日前に見舞い、小澤は目に涙をうかべてやせ細った手をさしのべ、無言のまま栗田の手を握って離さなかったというエピソードがある。享年88歳。

<日本海軍将官総覧>
<提督海軍将軍総覧>
<軍人研究家・峯一央氏より情報提供>


*墓石前面「栗田家之墓」、裏面「昭和三十四年十二月 栗田健男 建之」。左面が墓誌となっており、妻の静枝(S33.12.4歿)から刻む。次に栗田健男が刻み、「従三位 勲一等 海軍中将」と刻む。



第440回 戦艦大和 謎の反転 レイテ沖海戦 栗田健男 お墓ツアー


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・か行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。