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いながき あやお

稲垣生起

いながき あやお

1890.2.20(明治23)〜 1942.9.15(昭和17)

明治・大正・昭和期の海軍軍人(中将)

埋葬場所: 9区 1種 14側

 和歌山県和歌山市出身。1910.7.18(M43)海軍兵学校卒業(38期)。笠置乗組、半年間の練習艦隊遠洋航海に出、帰着後は、和泉乗組、出雲乗組、三笠乗組を経て、'13.12.1(T2)海軍水雷学校普通科学生、'14.5.27海軍砲術学校普通科学生。同.12.1宗谷(初代)乗組、同.12.16〜翌.4.3練習艦隊近海航海、'15.4.20〜同.8.23練習艦隊遠洋航海を終え、同.12.13安芸乗組となった。'16.12.1海軍大学校乙種学生、'17.11.30海軍砲術学校高等科修了(16期)、同.12.1如月乗組となる。'18.5.1第2特務艦隊司令部附、同.7.5柳乗組、'19.9.15安芸分隊長、同.12.1敷島副砲長 兼 分隊長、'20.12.1龍田砲術長を歴任し、'23.10.15海軍大学校甲種卒業(21期)した。
 海軍省軍令部出仕、参謀を経て、'26.11.1金剛砲術長、'27.12.1(S2)中佐となって第1艦隊参謀 兼 聯合艦隊参謀に就任した。'28.12.10第5隊砲術参謀、'29.11.5横須賀鎮守府附となって欧米各国出張をした。'30.12.1海軍大学校教官を挟んで、'31.12.1大佐に昇進し、陸軍大学校兵学教官を兼務した。
 '32.11.15聯合艦隊先任参謀 兼 第1艦隊先任参謀、'33.11.15海軍軍令部第1部第2課長、'35.10.30海軍軍軍令部 兼 海軍省出仕を歴任し、同.11.5ロンドン軍縮会議全権随員として出張した('36.1.15日本は脱退。同.2.28帰朝)。
 '36.4.1練習艦隊の比叡艦長、同.12.1大東亜戦争に於ける日本海軍の正規航空母艦(空母)である加賀艦長に着任。'37.12.1少将に累進し、海軍航空本部総務部長に任ぜられた。'39.12.1海軍軍令部出仕。'41.4.1病気に依り待命となるが、同.12.30再び海軍軍令部出仕に復帰。'42.6.1海軍大学校長 兼 高等技術会議議員に就任したが、同.9.15現職のまま逝去。享年52歳。没後、1階級特進し中将となった。

<帝国海軍提督総覧>
<日本海軍将官総覧など>


墓所

*墓石は和型「海軍中将稲垣生起墓」と刻み、書は海軍大将豊田貞太郎。右側に墓誌があり、戒名は得生院釋浄邦居士。妻はみつ。

*稲垣生起墓石の手前に和型「宮居家之墓」が建つ。左面に宮居康太郎・千代の戒名、没年月日、行年が刻む。宮居康太郎(みやい こうたろう 1974.4.19歿 77才)は従軍特派員として活躍した人物で、『支那事変従軍記蒐録』『大東亜戦争史』『新聞界人物評伝』『言論統制文献資料集成』などの著作がある。妻は千代。


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