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あるが みつとよ

有賀光豊

あるが みつとよ

1873.5.23(明治6)〜 1949.5.31(昭和24)

明治・大正・昭和期の
大蔵官僚、貴族院議員、実業家

埋葬場所: 9区 1種 1側 1番

 伊那郡南殿村(南箕輪村)出身。 松本中学(松本深志高校)を経て東京法学院(中央大学)英法科に学び、1897(M30)高等文官試験に合格して大蔵省主税局に勤務。 長崎、函館などの税関勤務を経て朝鮮の鎮南浦税関長となり、朝鮮総督府関税局に所属。 1917(T6)朝鮮殖産銀行創立に参加し、'20頭取となった。 さらに京城放送局創立委員長を経て勅選貴族院議員に選ばれ、日本高周波重工業社長、農林省食糧管理局顧問となって実業界でも活躍した。

<日本人名大事典/現代034頁>
<五輪塔様より情報提供>


※2008年5月4日に有賀光豊の孫、田邉康雄氏からご連絡を頂戴し、有賀光豊およびその関連する人物等の貴重な情報をいただきました。 下記、文章は田邉康雄氏からの提供情報である。最初に書籍「有賀さんの事跡と思い出」より原文のまま引用する形で、氏に作成していただきました。この場を借り御礼申し上げます。


 1873(M6)5月23日、有賀光彦の長男として長野県上伊那郡南箕輪村南殿に生まれる。1880(M13)漢学の先生の宅に預けられ、水汲み飯炊きをさせられて小学校に通う。 松本中学に進み、在学中も先生の宅に預けられ、日課の薪割りで腰をいためる。1891(M24)長野県立松本中学を卒業する。 同年「三年位で修学を卒えよ」との父親の命令でやむなく東京法学院に入学する。1894(M27)東京法学院英語法律科を優等で卒業する。 同年12月近衛野戦砲兵連隊補充中隊に一年志願兵として入隊し新馬の調練を命ぜられ模範生となる。1895(M28)12月、志願兵終末試験に合格して除隊となり、翌年3月には陸軍砲兵少尉になる。 なお日清戦役従軍記章と功労金40円をもらう。1896(M29)親友の河野秀男(多磨霊園21-1-11)に刺激されて高文受験を思い立ち、上野図書館に通う。 1897(M30)高文にようやく合格する。河野秀男、加藤敬三郎(多磨霊園22-1-8)氏等と同期である。 1898(M31)同郷の先輩の渡辺国武(多磨霊園14-1-1-10)に仕官の世話を頼み目賀田種太郎に初対面する。同氏の推薦により12月大蔵省属に任官し主税局に勤務する。
 1899(M32)5月1日、税関監視官(高等官7等)となって、長崎税関監視部長の任につく。1800(M33)6月、父の勧めもあり休暇を願い出てアラスカへ採金法視察のため北米に渡航したが、現地暴動のため目的をはたさず。 同年9月帰朝して長崎税関に復帰する。1901(M34)10月、父の病篤きため一旦官を辞して故郷に帰り家業をみる。 1903(M36)10月、父の病小康を得たので再度任官し函館税務署長となる(高等官7等)。1904(M37)1月、税関監視官(高等官7等)に任ぜられて前任の長崎税関監視部長を命ぜられ再度長崎に赴任する。 監視部長会議でたまたま大阪税関監視部長の鈴木穆と相知る。1905(M38)5月6日、信州出身の実業家北村英一郎の女公子と東京の北村邸にて結婚式を挙げる。任地長崎にて新家庭生活に入る。 同年秋、韓国政府財政顧問目賀田種太郎の勧誘によって朝鮮行きを決心する。1906(M39)1月10日、「御用有之韓国に差遣わさる(内閣)」の辞令の下に単身朝鮮に赴任する。 夫人は実家にて身重の身をしばらく静養する。同年2月9日、韓国総税務司の辞令により鎮南浦税関長を命ぜられる。同年4月1日、日露戦役の功により勲6等瑞宝章と金220円をもらう。 同年5月23日、長男光富が出生する。同年8月10日、正7位に叙せられる。
 1907(M40)日韓新協約により韓国政府にあった日本人役人は統監府の役人となる。1907(M40)7月6日、長男光富可愛盛りに死す。 1908(M41)1月、韓国政府官制の改正によって統監府の日本人役人はみな韓国官吏に任用される。したがって韓国政府から改めて鎮南浦税関長(奏任官2等4給俸)の事例を受ける。 同年5月23日、長女美佐子生まれる。1909(M42)4月7日、未だ二重官籍の制度にて日本内閣より高等官5等(2給俸)に叙せられ、次いで従6位に叙せられる。 1910(M43)1月20日、韓国政府関税局書記官(奏任官2等3給俸)に任ぜられ監督部長となる。同年3月15日、韓国政府関税局関税課長兼経理課長を命ぜられる。 同年9月3日、次男光豊生まれる。同年9月30日、統監府官制廃止となり一時廃官となる。同年10月10日、改めて朝鮮総督府書記官(高等官5等3給俸)に任ぜられて度支部司税局関税課長を命ぜられる。 1911(M44)7月14日、総督府道事務官(高等官4等3給俸)任ぜられて京畿道内務部長となる。正6位に叙せられる。1912(M45/T1)2月、父光彦死す。同年6月27日、勲5等に叙せられて瑞宝章をもらう。 同年7月17日、次女夏子生まれる。1914(T3)7月3日、三男隆雄生まれる。同年12月22日、高等官3等1給俸になる。1915(T4)3月20日、従5位に叙せられる。 1917(T6)1月15日、三女静子生まれる。同年8月15日、度支部理財課長に転任し専ら朝鮮殖産銀行の創立準備に参画する。1918(T7)6月20日、朝鮮殖産銀行令発布されて同行設立委員会幹事を命ぜられる。 同年7月25日、四男敏彦生まれる。同年10月1日、朝鮮殖産銀行成立し同行理事に就任する。1920(T9)7月2日、三島頭取死去にともない、頭取を命ぜられる。 (以下は子供の出生日以外は省略) 1921(T10)9月7日、五男澄男生まれる。1923(T12)9月7日、六男守之生まれる。1928(S3)1月12日、七男正弘生まれる。


【有賀光豊の出身地と先祖・祖先】
 殿村古城と有賀右京之介、十代前の彦右衛門光長
 故有賀光豊夫人有賀公子さん談

 今から約500年前の天文年中、信濃の国伊那郡南箕輪村に一古城がありました。松本官城の出城で、殿村城というたそうです。 小笠原長時という殿様がこの城を預かっておられ、その幕臣の箕輪頼親の旗下に有賀右京之介という武士がありまして、その後宮内之介という人の時代に、殿村城は武田の甲州勢の攻略を受けて、討死されたと伝えられております。 それから子孫は“蕗原の庄”といわれた、山蕗でも一面に生い茂っていたのでしょうか、この土地に土着して、代々農を営んで参りました。 有賀や彦右衛門光長という、光豊より十代前からの事跡ははっきりしておるのですが、光豊の五才の時、はからずも火を発し丸焼となったので、記録を喪失されたということです。

 信州魂と有賀家の遠祖 故有賀光豊氏従弟鉱業家 広瀬省三氏
 “有賀”という苗字の一族は、伝説によると、大昔諏訪明神(大国主の命御兄弟)が、今の朝廷に背いて戦に破れ信濃に逃げ込んできたときの従者の一族だそうです。つまり今の皇室とは派が違うのですね。この“有賀”というのは諏訪郡四賀村に一大族があって一軒のこらず有賀です。有賀家はこの分派と見るべきでしょう。


※以上の内容は「有賀さんの事跡と思い出」の年表から転記した。以下は田邉康雄氏個人の情報提供である。


 広瀬の言うことを裏付けるかのように、諏訪神社上社の裏に有賀峠と命名された峠がある。その近くに有賀城と命名される古城跡もある。
 有賀光豊の有賀家は徳川幕府天領である信濃の国、伊那郡南箕輪村南殿において苗字帯刀と門構えを許された郷士だった。大東亜戦争敗戦以前は村の面積の約1割を所有する村一番の大地主であった。 いわゆる豪農郷士である。屋号を「中東」と称してきた。因みに二番目に大きい地主は北殿の倉田氏「問屋」だった。
 有賀光豊の祖父全八郎光敏は、有賀や彦右衛門光長から八代目であり、諏訪の武井見竜について漢学を学んで廸齊と号し、“廸齊輯録”や“詩歌集”を残した。 父親有賀光彦は江戸の若山勿堂の塾に学んだ学者である一方、横井戸を掘って灌漑の便を開いて荒野を水田に開発して村の発展に尽くした。


【有賀光豊の子】
 有賀光豊には七男三女がいた。長男は生まれて間もなく死亡した。長女美佐子は田邉多聞に嫁した。多聞と美佐子の子が今情報提供している田邉康雄である。
 次男光則は父光豊の起こした高周波重工業株式会社を引き継いで日本高周波鋼業株式会社社長となった。社長の時急性膵臓炎で病死した。
 次女夏子は商工官僚の猪熊信二に嫁した。信二は戦時中の物資動員の全てを扱う岸信介商工大臣の下で統制課長の激務を勤め、そのため健康を害して戦後まもなく他界した。
 三男隆雄は高周波重工業の技術をヒントにして高周波熱錬株式会社(現ネツレン)を起こし社長となった。
 三女静子は日本興業銀行員金子氏に嫁した。金子氏も戦時中の激務のため健康を害して戦後まもなく他界した。その後、静子は有賀一則と再婚した。
 四男敏彦は新日本製鉄の韓国哺項製鉄所(ポスコ)協力プロジェクトを統括指揮してその功績により韓国朴大統領から勲章を授かった。その後、日本プレスコンクリート株式会社の社長となった。
 五男澄男は慶応大学経済学部の在学中に神風特攻隊を志願して鹿屋飛行場から出撃命令を受けて飛行場に整列した。しかし急遽出撃中止命令が出て翌日が敗戦だった。戦後警察予備隊から自衛隊に入隊し国の防衛に一生を捧げた。著書に「日本海軍神風特別攻撃隊隊員の記録」がある。
 六男守之は安田信託銀行員だった。
 七男正弘は本州製紙株式会社に勤務した。学習院高等科から東大に進みテニスで名を馳せた。平成の今上陛下が皇太子であらせられた際、美智子妃殿下、現皇太子、秋篠の宮のテニスのお相手として東宮御所に何度か参上した。その時の写真を正弘の遺族が保管している。


【有賀光豊の晩年】
<公職追放>
 有賀光豊は、1946(S21)10月、占領軍最高司令部(GHQ)よりE項(日本の膨張に関係した金融機関)の役員に該当するとして公職追放を受けた。さらに加えて1947(S22)5月に同G項(有力なる会社の役員)に該当するとして二重に公職追放を受けた。

<農地解放>
 1946年5月、有賀光豊の故郷南箕輪村の土地(村全体の約1割)がGHQ農地解放令による不在地主の適用を受けて小作人に開放された。

<自宅接収>
 その間、有賀光豊の東京世田谷区北沢4丁目にあった敷地面積約1千坪の邸宅が連合国進駐軍将校宿舎として接収され、光豊は運転手用離れに住まいしていた。

 有賀光豊は「公職追放」「農地解放」「自宅接収」という3重苦を与えられた中で、北沢の住まいにおいて1949(S24)5月31日に胃がんのため逝去した。


【有賀光豊の妻を通じた姻戚】
 有賀光豊の妻公子は、北村銀行頭取の北村英太郎の長女である。北村銀行は昭和の大恐慌で倒産した。 公子の兄、北村明太郎の妻、加津子は日本海軍造艦技術の祖、海軍中将赤松則良である。則良は元幕臣であり、同じく旧幕臣の田邉太一(後述)とは旧知の間柄である。 加津子は医師林洞海の娘である。洞海の妻、つるは順天堂医大の始祖佐藤泰然である。赤松則良の妻、貞の姉多津は榎本武揚の妻である。


【有賀光豊の子を通じた姻戚】
<長女美佐子が嫁ぎ先の田邉家関係>
 有賀光豊長女の美佐子(1908-1999)は大正・昭和期の機械エンジニア(鉄道車両)の田邉多聞に嫁いだ。この情報提供者の田邉康雄は多聞・美佐子の次男である。 多聞の父の田邉朔郎は琵琶湖疏水設計者であり、明治・大正期の土木エンジニア。祖父の田邉孫次郎は幕末期の軍事エンジニア(洋式砲術家)である。
 多聞・美佐子の子で有賀光豊の孫である田邉康雄は、三菱化成(現在の三菱化学)を60才定年退職後、労働安全とISOマネジメントシステムに関するコンサルタントの会社を起し、「生涯現役エンジニア」をしている昭和・平成期の化学エンジニア(触媒工学)であり同名の著書がある。 また田邉康雄は幕末明治の技術史研究家でもあり、これをまとめた『びわ湖疏水につわるある一族のはなし』(1991年9月発行私家本、国会図書館へ献本)の著者でもある。
 さらに田邉康雄の長男田邉康一郎氏は化学エンジニア、次男田邉光二郎氏は化学エンジニアであり、長女田邉寛子氏は「まちひとこと総合計画室」を設立し、商店街の街並み設計の建築エンジニアというわが国でも例の少ない5代エンジニアの家系である。


【有賀光豊の親戚と姻戚の墓所】
<有賀家関係の墓所>
 有賀光豊の子孫で有賀姓を名乗るものは全て多摩霊園の有賀光豊の墓に埋葬されている。

<光豊長女美佐子嫁ぎ先の田邉家関係の墓所>
 有賀光豊の孫、田邉康雄の父親の田邉多聞(1898-1975)と祖父の田邉朔郎(号は石齋)(1861-1944)の墓所は青山霊園にある(1種ロ8−16)。 ただし田邉朔郎の実際の墓所は京都市が寄贈した京都市東山区大日山の京都市営霊園にある(霊園の坂を登りきったもっとも奥左側)。「英魂永く本市に留ることを希う。 京都市長」と墓碑に刻まれている。ここに京都市長が希うがままに妻静子とともに眠っている。2人はここから青山霊園の田邉家墓所に分骨された。
 朔郎の岳父(すなわち情報提供者の田邉康雄の曽祖父)、北垣国道の墓所は京都市左京区岡崎の浄土宗大本山金戒光明寺(黒谷)の本堂の裏にある。 国道は生野の変の首謀者であり、長州軍と共に明治維新戦争を勝ち抜いて明治政府の内務官僚となり、熊本県、高知県、徳島県、京都府、北海道の知事を歴任して内務次官、貴族院議員、枢密院顧問官になった。 京都府知事時代に琵琶湖疏水計画を推進し、田邉朔郎を工部大学校卒業とともに主任技師として招聘して工事完成後、長女静子を朔郎に娶わせた。
 有賀光豊の長女、美佐子が嫁した田邉家は代々徳川幕臣儒者の家で、江戸時代後期の幕臣、儒者、甲府徽典館学頭の田邉石庵は著名である。
 田邉朔郎の父親の田邉孫次郎(号は勿堂)の墓所は東本願寺ひばりが丘霊園にある。元来浅草の同寺本堂裏にあったが、関東大震災後にひばりヶ丘(本堂の北側20m)に移設された。 ここには田邉家初代田邉菊忠(1748年没、享年85才)、二代目田邉丘忠(1769年没、享年74才)、三代目田邉次郎孫次郎大夫経忠(号は貞齋)(1773年没、享年48才)、四代目田邉克忠(1835年没、享年79才)、五代目田邉新次郎(号は石庵)〔村瀬誨輔と同一人物〕 (1856年没、享年76才)、六代目田邉孫次郎忠篤(号は勿堂) (1963年没、享年42才)までが眠る。 なお近くに情報提供者の田邉康雄が自分のために準備した田邉康雄家の墓所もある(本堂の直前E-1-1)。
 整理すると、明治維新以前の田邉家の墓所は東本願寺ひばりヶ丘霊園にあり、明治維新以後の田邉家の墓所は青山霊園にある。
 田邉家青山霊園の墓所には朔郎の叔父で幕臣、幕末明治期の著名な外交官の田邉太一(号は蓮舟)も眠る。田邉家墓所の隣り(1種ロ8−17)には評論家・哲学者の三宅雪嶺と、雪嶺の妻で明治期の女流作家第一号(藪の鶯)花圃の墓がある。 花圃は太一の娘であるので雪嶺の岳父にあたる。田辺家の墓と三宅家を正方形対角線上の2角とする正方形の一区画は、田邉朔郎がつくった田邉太一の墓所であり、ここに三宅雪嶺に嫁いだ田邉太一の娘、明治期の女流作家第一号の三宅花圃が埋葬され、その後順次田辺家と三宅家の人々が埋葬されることとなったものだった。 ここに田邉太一の大きな墓石が立っていたが現存せず、田邉康雄氏の著書「びわ湖疏水にまつわるある一族のはなし」の中にその写真が(墓石裏面)をとどめるに過ぎない。
 太一の娘婿雪嶺の甥で昆虫学者の三宅恒方も同墓所に眠る。三宅恒方の妻は小説家の三宅やす子(多摩霊園8-1-16-34)である。雪嶺の長女の多美子は政治家の中野正剛(多摩霊園12-1-1-2)に嫁いだ。
 情報提供者の田邉康雄の妻智子の父の大迫尚一、祖父の大迫尚熊、曽祖父の大迫尚敏の墓所は田邉家の青山霊園墓所のすぐ近くにある(1種口第2号16側2)。 大迫は源頼朝の命により島津忠久にしたがって薩摩入りした梶原景高(梶原景時次男)を始祖にもつ代々薩摩藩要職を務める重役藩士の家に生まれ、明治維新に際して薩英戦争、禁門の変、鳥羽伏見街道の戦いを西郷隆盛に従って戦い抜いた。 さらに西南戦争、日清戦争、日露戦争を戦い、日露戦争では乃木軍の下で旅順港攻略戦の軍功を上げ陸軍大将に列せられた。大迫は203高地を攻め落とした旭川の第七師団の師団長だった。 大迫は乃木大将が明治天皇に殉死された後、乃木大将の遺言によって学習院長の職を乃木大将から引き継いだ(第11代)。 弟の大迫尚道(多磨霊園4-1-31-6)も陸軍大将となり、西郷隆盛陸軍大将、西郷従道海軍大将に続いて兄弟大将の第二番目である。 大迫は西南戦争で大久保利通の政府軍側に立ち、西郷隆盛の薩摩軍を敵とした。そのため鹿児島を追い出されて鹿児島の先祖代々の墓所(鹿児島市冷水)に入ることができなかった。 現在の青山霊園の大迫家の墓所は、大久保利通に寄り沿うように利通の墓地の東側直近に位置する。因みに西郷従道の墓地は多磨霊園(10-1-1-1)の有賀光豊の墓地の正面にある。


【有賀光豊関係書籍】
 『有賀さんの事跡と思い出』(編集兼発行人「有賀さんの事跡と思い出」編纂会、日本高周波鋼業株式会社内、非売品)という本が出版されている。
同書は、「artアート古書センター」が取り扱っている。

<有賀光豊孫、田邉康雄氏より情報提供>


 


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