立ち小便とジェンダー 3 立ち小便と性教育 ぼくはする人わたし拭く人 |
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7 トイレに染みついたジェンダー・バイアス 記録にとどめていないので掲載年月日を示せませんが、『朝日新聞』の「声」欄に男子小学生の母親から学校の小便器の廃止を求める投書が寄せられていました。「他人に性器を覗かれそうになりながらオシッコをするなどという野蛮なことは人権問題である」というような趣旨でした。きっとそうした要求がなされた裏には、その学校にも投書では触れにくい様々な問題があってのことだと思います。 ただ、こうした投書を目にした男性の中には、「そんな過保護なことを言う母親の子どもはきっと女々しい軟弱な奴で、いじめにあってもしかたないだろう」などと乱暴なことを言う人がいてもおかしくないの現状でしょう。 しかし、ここで私達は少なくとも二つの視点でこうした声≠理解していくことが必要だと思います。その一つは学校を中心とした教育や家庭でのしつけにおけるジェンダーとは何かで、もう一つは日常生活におけるセクシュアル・マイノリティの苦難です。 まずは、その一つ目について考えていきましょう。 衛生陶器の大手メーカーであるTOTOは2001年12月、東京・横浜・大阪・福岡・仙台の主婦を対象に、夫や息子の排尿スタイルについてのアンケート調査を実施しました。 TOTO http://www.toto.co.jp/index.htmのニュースリリース(2002/04/02)で紹介されている985人の回答の一部は次のようなものでした。
しかし、当事者の男性も洋式便器を的≠ノして立ち小便をする不具合(泌尿器=性器の形状の個性によって飛ぶ方向に癖がある上、特に朝方など角度の付け方が大変だったり……)を日頃厭ほど感じているのです。「それなら座ってすれば」と思う女性もいるでしょうが、便器の大きさや便座の形状によって非常に微妙な問題が生じることなど女性には分かりにくいことでしょう。しかし、そうしたことは学校でも家庭でも問題にもされてきませんでした。 オムツがとれて自分でトイレが使えるようになると、女の子の場合は泌尿器と性器が尿道口・膣口・肛門と並んだいる構造上、性器への細菌感染を防ぐよう主に母親によって「お尻の拭き方指導」がなされているようですが、男の子の場合は体ではなく「便器や床を汚さないようにと叱られる」だけです。 これは第二次性徴期についても同様で、初潮を迎える女の子たちには技術・精神の両面から学校・家庭の双方でなされて来たのに対し、男の子の性的な刺激による勃起や精通・夢精、それに伴うマスターベーションに対して学校は教科書に書いてあること以上の話をしようとはせず、母親が知らん振りでも問題にはされません。 これは泌尿器が性器であるという事実から目をそらそうとするのと同時に、性を「産む性」に限定し「快楽の性」を排除しようとするとする意識の反映であり、女性の「快楽の性」を否定する意識にもつながります。 先の石原東京都知事の差別発言からも「産めない女は存在価値なし」という意識が社会に根強くがあることは想像できます。その同一線上には男の女遊びは仕方がないが多情な女は淫乱ではしたない存在として否定し、慎み深くしとやかで、恥じらい深く男に対して従順な女性が肯定する意識があります。しとやかで恥じらい深い温雅貞淑な女性を「男が汚したトイレを嫌がることなく黙って掃除できるようにしつけられた女性」と言いかえることもできるかもしれません。 昔ハウス食品のカレーのCMで「わたし作る人 ぼく食べる人」というのが性役割(ジェンダー・ロール)を固定するものだとしてフェミニストの槍玉に挙げられましたが、トイレにおける「ぼくする人 わたし拭く人」といったことが許される性のダブルス・タンダード(二重基準)も問題にすべきでしょう。私達はトイレに染みついているジェンダー・バイアス(性差による価値基準や評価の偏り)についてもっと敏感になる必要がありそうです。 ただ、その時にジェンダーばかりを表に出しセクシュアリティに関わる問題を置き去りにすることは、性を真に人間の課題として捕らえることから遠ざけてしまいかねないことを忘れずにおきたいものです。 8 総合学習としての立ち小便 女性が立ち小便をしてきた歴史と女性用小便器が発売されている事実は先に触れましたが、女子生徒の立ち小便をめぐる二つの対照的な話があります。 一つは「女のトイレ事件簿 ナプキン先生 性と生を語る」(小野清美 著)で紹介されている明治41年の東京日日新聞の記事で、「福岡県の女子教育関係者の会議があり、学生風紀の振粛の第一に、女子学生の立小便を廃止するよう注意したきこと云々が議論された」とあります。 もう一つは「トイレ文化誌」(山路茂則氏 著)で紹介されている静岡県の私立女子校の話題です。
女生徒の立ち小便を禁止する論理は、文明開化とともに入ってきたアメリカの清教徒的禁欲主義に根ざした性教育を基準として、日本女性らしいつつましさを守らせようという矛盾に満ちたものです。 その一方の立ち小便推進の論理は、アメリカ資本主義を支える合理主義に基づき、かつては商品としての肥料として利用するためだった立ち小便を、勉学(労働)の効率をあげるために利用するという実利的な発想にから生まれました。 公の会議で議論されるほどに女生徒の立ち小便が普通にあることだったのは、公衆道徳が乱れていたことを示すのではなく、性そのものに対するおおらかさがあったことを示しています。上野千鶴子の 「スカートの下の劇場 」ではありませんが、排泄の場が覆い隠されていくと同時に、それとセットになった性も隠微なベールに包まれていったのかもしれません。 禁止・推進のいずれにせよ排泄と性を切り離し、しかも当事者である女生徒の意識を置き去りにして議論しているところが、いかにも「教育関係者」らしい議論の仕方です。それは最近はやりの総合学習についても同様です。 総合学習では身近な環境問題の切り口として「トイレ」が題材にされることも多いようです。しかし排泄と性を切り離したトイレ学習は子どもたちの生活感覚と微妙にずれたものになってしまいかねません。 「トイレはきれいに使いましょう」という時、排泄物による汚れが直接的には問題にされますが、もう一つの汚れ=落書きが教育課題にされることは少ないのではないでしょうか。もちろんその落書きが誰かを差別・中傷するものであった場合は人権問題≠ニして取り上げられることはあります。 しかし、トイレに付き物の性器を模したマークやシンボリックなイラスト、あるいは卑猥な告白や物語etc.についてはあたかもタブーであるかのような無視、あるいは露骨な嫌悪感や軽蔑を伴った叱責がなされるばかりです。 「なぜトイレに性的落書きが付き物なのか」を掘り下げて考えることで大切な教育課題に気付き、トイレを舞台となった性的な要素を多分に含んだいたずらやいじめへの的確な対応方法も見えてくるはずです。 人間の営みを深く理解するための総合学習を実現するには、トイレにまつわる恥ずかしさの本質や産む性と快楽の性の問題、さらには立ち小便に見られるジェンダーの問題を少しずつでも課題に据えていくことが有効でしょう。 性による差別を排除し性の多様性を認めることは、とりもなおさず個人の尊厳と個性を尊重することに他なりません。 そこで、次回はセクシュアル・マイノリティ(性的少数者)にとっての立ち小便について触れていきます。 |
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立ち小便とジェンダー 4 「立ち小便に見るマイノリティの願い 座ってないで立ちあがろう」 へつづく |
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