九尺二間(ケン)の長屋というのを、知っていますか? |
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間口九尺(2m70cm)x奥行き二間(3m64cm) つまるところ6帖の部屋に |
半間(90cm)幅の土間が付いている、 |
その土間が、玄関であり、台所でもある、 |
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6帖の部屋には押し入れが付いています、 その6帖が |
居間であったり、寝室であったり、応接間(そんなもなは無かった)でもあったりするわけで |
一寸 想像しただけでも解るように、とにかくコンパクト、質素、そのもの |
天井はなく、隙間風はもとより、虫、はえ、蚊なども、どこからでも出入り自由
電球は一つ、梁から一寸長目のコ−ドで台所と併用する |
井戸は共同で年中 井戸端会議が行われるわけで、静かに暮らすわけには |
容易くは行かない。 |
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そんな部屋が5〜6部屋続くのが 長屋で 隣の声も、音も、筒抜け、 |
プライバシ−、 そんなものはまったくありませんし、それが、当り前でした。 |
隣の家の事はもとより、2軒先の家の事でも解ってしまう位だから、 |
隠しようもない、又その必要も無かったかもしれない。 |
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今の時代では到底理解出来ない暮しが、 |
まるで時代劇や落語に出てくる暮しがありました、 「熊さん」 「八さん」ではないが、 |
金は無いが、人情味のある、あったかな、気持ちの持ち主が、 |
そこには住んでいたのです。 |
でも当時はどこにでもあったごく普通の風景だったかも知れません。 |
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自分の家は持ち家ではあったが、貧しさは全く同じで、 |
母親一人で三人の子供を育てている、裕福のはずがない。 |
でも今振り返っても、けして辛いとは思わない、もしろ楽しいことだけが、残っている。 |
それは、長い時間がそうさせているのかも知れないです、 |
前置きが長くなってしまいましたが
そんなん時代 1950年代の遠い昔の話です。 |
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長屋、井戸端、子沢山、貧しさゆえの寛容さ、 |
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1950年代後半の写真でこれを撮った人は、近所の高校生S氏で |
雨上がりの、長屋の人たちで 特別な記念写真ではないが、何でもないのに20人もいる
S氏は現像も自分で手掛け、私は暗幕を張る手伝いをさせられた、 |
特設の暗室は臭いよりも、床が心配なトイレであったのを覚えている。 |
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長屋の井戸に一番近い所に住んでいた Nおばさんは、
陽気で楽しく皆に好かれる人だった。 |
中学生の子供と(猫のタマ)二人暮らし、東京浅草から疎開してその延長で、 |
行商で暮らしを立てていた。 Nさんの玄関近くに、鳥屋の台所があり、魚を焼くときは、 |
いつも外で焼いていた、いつものように、鳥屋のばあさんが外でサンマを焼き始め、 |
ちょっと目を離したすきに、Nさんのタマがそのサンマを銜えて、自分の家のなかへ、、、、 |
タマにとっては、大きな獲物である、誇らしげに、 |
家に運び入れたのであろう、(当時のサンマは冷凍はなく脂がのっていてうまかった) |
その頃 鳥屋のばあさんが、外で騒いでいる、 |
「サンマが一匹足らない!!猫に取られた!!」 |
「どこの猫だ!! O*XY>|><*+‘@!!」 |
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N家では、「お、お、!サンマ!タマ!でかした!」 と小さな声で、 |
言ったか、どうか、 でもそう言ったにちがいない。 |
なぜなら 翌日、井戸端で自慢げに、「うちのタマはたいした者だ、昨日はサンマを、 |
銜えてきたんだよ、よそのサンマには違いがないが、誰のサンマか解らないので、 |
返すわけにも行かず、でかした と、おかずにして、タマには、まちろん頭と骨をやったよ、 |
うちのタマは利口だね。」 もちろん鳥屋のばあさんは、そこには居なかったが。 |
その話で井戸端は大盛り上がりである。 |
そんな話を解らない タマはやぶれ障子の玄関先で日向ぼっこ、 |
スポットライトを浴びているようだった。 |
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昭和26年初冬 貧しくとも、おおらかな暮らしがあった。 |
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Nおばさんに付いての話はまだまだ続きます。 |
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