神奈川県北多摩郡三鷹村(翌年より東京府へ移管:東京都三鷹市)出身。初名は孝。渡辺万助と簡略字で記される時もある。神奈川県会議員を務めた 8代目渡邉萬助(初名は渡邉萬寿之助、号は雀叟)の長男として生まれる。弟に医学博士の渡辺衡平。叔父に中央線や西武多摩川線開通に尽力した実業家の秋本喜七(6-1-13-10)がいる。1926(T15)相続に伴い、9代目「萬助」を襲名した。
渡邉家は天明年間に甚五左衛門の代に三鷹村の下連雀に住す。以後、当主は「萬助」を襲名す。代々は醤油醸造業を営み、徳川将軍家の御用達をつとめし家柄であった。江戸後期の安政の時、玉川上水に牟礼大盛寺境内の杉を二つ割りにして橋を造り、現在も改修され名を残す「萬助橋」がある。
'23(T12)先代は関東大震災後、所有する下連雀の土地の雑木林を切り拓き、約4万坪の住宅地を造る。相続した9代目萬助は、文化人や軍人の避暑地としても開放し、昭和初期に洋館や和洋折衷の住宅なども多く建てられた。
また、'33(S8)下連雀に正田十吉(10-1-4)が創業した正田飛行機製作所や三鷹航空工業株式会社が設立される。中島知久平(9-1-2-3)の中島飛行場が、'38 東京三鷹の武蔵野町に陸軍の発動機を生産する中島飛行機武蔵野製作所を開設。海軍はそれに対抗し、その隣に、'41 海軍の発動機を生産する中島飛行機多摩製作所を開設。計13社が三鷹・武蔵野地域に進出し、一大軍需工場地帯・航空工業で繁栄した。
9代目萬助は、'27(S2)法政大学法学部卒業。父から相続(1926)し下連雀の地主 名望家となる。実業家として東海興業や日東印刷の各取締役を務めた。
戦後、'46.12 GHQ指令に基づき、新しい警察法が公布され、自治体警察が創設されたが、三鷹町で初代公安委員として自由党の渡邉萬助と民主党の大野金次郎、社会党の鈴木平三郎(10-1-17)が選出された。
'50.11.3(S25)三鷹は市制を施行し、三鷹町長であった吉田賢三郎が初代市長に就任。その前年、'49.7.15 三鷹の名を全国的に有名にした国鉄三大ミステリー事件の一つである「三鷹事件」が起こった(詳しくは喜屋武由放の頁へ)。
三鷹市政となった半年後、'51.4.30(S26)「市制協力促進会」の座長をつとめた9代目萬助が市長選に立候補。対立候補とされていた現職市長の吉田賢三郎が都議選に出馬するため市長選の立候補を辞退したため、9代目萬助が無投票で当選し、2代目三鷹市長に就任した(1期:1951.4.30-1955.2.11)。三鷹の大御所と言われていた9代目萬助が衆望を負って立候補を決意したため、吉田は出馬を辞退し都議選にまわったとされる。吉田が公認を受けていた社会党は右左に分裂し対立していたため、次の都議選で右左社会党がともに立候補を立てる必要があったためともされている。結果は右派の田山東虎が当選している。
三鷹市長時代には、1953.9「昭和の大合併」と言われた町村合併促進法をきっかけに、武蔵野三鷹合併問題が持ち上がった。市長として、武蔵野市と共同歩調をとって合併への準備を進めたが、南部の農民層を中心とする地元派は合併に反対。労働者層や革新系を含む北部の住民は合併賛成派であった。合併案は新市名を「武蔵野市」とし、市庁舎は三鷹駅南側に作ることで両市の合意ができていた。'55.1.31 両市議会に合併議案が上程され、武蔵野市議会は合併を決議したが、三鷹市議会では、16票対17票の1票差で合併案は否決され、合併は失敗した。これに伴い、合併否決の責任をとって市長を引責辞任した('55.2.11)。
同.4 三鷹市長選は初めて投票が行われた選挙となり、社会党左派から立候補した鈴木平三郎(10-1-17)が3代目三鷹市長に就任し、5期20年間務め、現在の三鷹市の礎を築いた。