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あきもと きしち

秋本喜七

あきもと きしち

1861(文久1.8.21)〜 1930.5.31(昭和5)

明治・大正期の実業家、政治家、
中央線・西武多摩川線開通に尽力

埋葬場所: 6区 1種 13側 10番

 武蔵国多摩郡三鷹村(東京都武蔵野市)出身。代々醤油醸造業を営み徳川将軍家の御用達で、明治からは政治家を務めた渡邉萬助(20-1-58)の次男として生まれる。旧姓は渡邉。1869(M2.10)秋本倉蔵の養子となり、後に娘の琴子(同墓)と結婚。
 運送業に着目して事業を興した他、日本採炭(株)社長、武相甲信運輸組合長、東京府農工銀行監査役、田無銀行頭取、玉川水道(株)監査役、南洋製糖(株)取締役などを務めた。
 政治活動は、武蔵野村会議員を皮切りに、村の助役、村長、北多摩郡会議員、同参事会員、東京府会議員、同郡部会議長、同参事会員、徴兵参事員、普通水利組合議員、警視庁防疫評議員などを歴任。そして、1915(T4) 第12回衆議院議員総選挙に東京府郡部から立憲政友会公認で出馬して当選。以降、3期連続当選した。この間、立憲政友会幹事、協議員、院内幹事を務める。その他、帝国農会創立委員を務め、帝国農会議員や評議員、東京府農会副会長、北多摩郡農会議員、武蔵野村農会議員などを務めた。このように東京都下の武蔵野の地域で絶大な地位を確立した。


【甲武鉄道(中央線)・境駅(武蔵境駅)】
 その自身の地盤に電車を通そうという甲武鉄道(中央線)計画が立ち上がる。これは御茶ノ水を起点として、飯田町や新宿を経由し、多摩郡を東西に横断し、立川を経て、八王子に至る鉄道の計画である。これにより、1889.4.11(M22) 甲武鉄道会社が開業した。開業当初は新宿駅から立川駅の区間で、開業当時の駅は、新宿駅、中野駅、境(武蔵境)駅、国分寺駅、立川駅であった。27.2キロの直線。8月には立川駅から八王子駅の区間が開通している。1904.12 当初の計画通り、御茶ノ水駅から八王子駅まで開通。1906 鉄道国有法により甲武鉄道は国有化され、1911 現在のように全通して中央本線となった。なお東中野駅から立川駅を結ぶ、約27.4kmの直線経路は、1964 新幹線開業までは全国で3番目に長い直線路線であった。
 甲武鉄道開業に向けて多くの難題があった。当時、甲州街道や青梅街道に沿う町村いずれも鉄道が開通すると宿場の客が減るという見方から反対運動で混乱した。そこで説得交渉にあたり尽力をしたのが秋本喜七である。そもそも広い武蔵野に直線コースであれば鉄道を容易という考えで鉄道計画が出たが、秋本は自身が保有する土地を通る場所に駅をつくる計画をさせ、その代わり、甲州街道や青梅街道に出やすいように、北側は保谷や田無に直通する道路を新設し、玉川上水に桜橋をかけ、南側は深大寺や天文台へ道路を整備するなどの尽力をした。これにより、開通の際に境駅(武蔵境駅)も誕生することになる。


【立川砂利鉄道(西武多摩川線)】
 1910頃、多摩川の川砂利を運搬する目的で立川からの砂利輸送の為の貨物線の多摩川砂利木材鉄道が開業した。運営会社は立川砂利鉄道株式会社であり、その代表取締役に秋本喜七が就任した。多摩川の砂利は荒川など他の川の砂利よりも良質で、コンクリート建物の需要などもあり取引が盛んになったこと、甲武鉄道が開業したことで運搬しやすくなったこともあり、立川を起点に砂利採取線ができた。秋本は是政付近の砂利採掘場まで立川方面から多摩川添いに延伸させ、更に是政から境駅までつなげた。後に他の区域は現在の南武線や五日市線などになっている。
 秋本がどこまで関わったかは不明であるがその後の歴史を記す。'17 からは是政から武蔵境の区間を砂利だけでなく旅客輸送もはじる(砂利がメインであり客はついでだったようである)。'22 是政駅から武蔵境駅 間を多摩鉄道として開業。この間、1919.7.1 境駅は武蔵境駅に改称している。
 '27(S2)多摩鉄道は旧西武鉄道に吸収合併され多摩線となる。旧西武鉄道は自身の沿線と接続しない飛び地の場所に線路を持った理由は、砂利線に目を付けたことによる買収であったためである。なお、旧西武鉄道は現在の西武鉄道とは運営母体は異なる。
 '29 沿線近くにある多磨霊園の墓参者が多い事から武蔵堺駅から二駅目の駅「多磨墓地前駅」(現在の多磨駅)を開業。また是政駅の隣りの駅「常久駅」も砂利採掘場であったが、その後、砂利採掘でできたくぼ地に水を張り多摩川競艇場が誕生。'54 競艇場前駅に名称を変更している。
 多摩川の砂利採掘は昭和30年代に入ると規制が厳しくなり、'64 青梅市の万年橋までの商業的な採掘が全面禁止となり、翌年には多摩川全域が採掘全面禁止。砂利採掘の歴史に幕をおろした。
 中央特快が停まらない武蔵境駅だが中央線開通当初より存在した歴史ある駅であり、現在の中央線、西武多摩川線、それを結ぶ武蔵境駅誕生の陰の立役者は秋本喜七である。享年68歳。


<歴代閣僚と国会議員名鑑>
<多摩の人物史>
<多摩川・鉄道の歴史など>


墓所

*墓所には二基の和型墓石が建つ。右側が「従五位勲四等 秋本喜七 / 室 琴子」、右面は喜七の戒名「遍照院殿深恵大融清居士」と没年月日、行年七十歳と刻む。裏面は「第十一代」として秋本喜七の略歴が刻む。左面が妻の琴子(1866-1939.12.27)の戒名「遍明院殿操室妙琴清大姉」、没年月日、行年は74歳と刻む。なお裏面に琴子の略歴も少し触れている。それによると、秋本倉蔵の二女、養子喜七と結婚して、きく、敏男、正一、毅を生むと刻む。左側が「秋本家之墓」、「新義真言宗智山派管長大僧正純榮書」と正面左側に刻む。裏面「昭和六年五月 秋本敏男 建之」。

*墓所右側に墓誌が建ち「秋本家先祖代々各霊」と刻み、喜七から刻みが始まる。喜七の妻の琴子は俗名を「コト」としている。長男の秋本敏男の戒名は寶照院殿法俊浄敏清居士。孫の喜一と続く。

*義弟で長女の きく の養子先の秋本録之助は武蔵野村の村長を務めていた時、1928(S3)町制施行となり武蔵野町となる。録之助は初代町長に就任。また喜七の長男の秋本敏男(同墓)は2代目武蔵野町長を務めた。戦後、1947.11.3(S22)市制施行で武蔵野市となる。荒井源吉が初代市長。

*秋本喜七が甲武鉄道(現在の中央線)開業に尽力していた時の武蔵野村は神奈川県に編入されており、住所は神奈川県北多摩郡武蔵野村であった。 1893(M26)東京府の管下に入り、住所が東京府北多摩郡武蔵野村となった。



第240回 中央線(甲武鉄道)西武多摩川線(立川砂利鉄道)
武蔵境駅 誕生秘話 秋本喜七 お墓ツアー


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