東京出身。父は現在の中央線開業に尽力した政治家の秋本喜七(同墓)。叔父の秋本録之助は武蔵野村長・町長の職に18年間尽瘁した。
叔父の録之助の参謀として、武蔵野町議員、市議員として活動し、議長も務めた。1928(S3)武蔵野村が町になる際に武蔵野新庁舎(後の初代市役所)竣功に向け、議員団長として信州駒ヶ根市役所庁舎を視察。白い石造円柱の玄関を二重ドアで入ると半円形の窓という洋風建築。敏男はこの庁舎にならうがよいと一決、武蔵野に同じ設計の庁舎が誕生した。これが縁となり、後に駒ヶ根青年会議所も武蔵野市の生活指標を分析し、その市制に反映している。
叔父の録之助の町長としての任期の残り2年間を引き継ぐ形で、1939.4.24〜1941.4.26(S14-S16)2代目 武蔵野町長に就任。すでに町史(後に市史)の編纂に着手していたが、戦時下の紙不足で戦後に発行された「武蔵野史」(S23.1.10武蔵野市役所発行 藤原音松著)は戦時下も編集を続けられた。
'37日本獣医学校を都内から移転させるために私有地を開放、'38専門学校令により日本高等獣医学校を創立し、理事長を十年間続け、'44校名を日本獣医畜産専門学校と改称('49日本獣医畜産大学、2006日本獣医生命科学大学)し、畜産学会の発展に尽くした先覚者でもある。
'33より太平洋信用金庫の理事を兼務しており、'50理事長、後に会長。武蔵野市西久保に本店を置き、杉並区域、境、三鷹、調布、田無に支店を持ち業績をあげた。享年92歳。
*墓所には二基の和型墓石が建つ。右側が「従五位勲四等 秋本喜七 / 室 琴子」、右面は喜七の戒名「遍照院殿深恵大融清居士」と没年月日、行年七十歳と刻む。裏面は「第十一代」として秋本喜七の略歴が刻む。左面が妻の琴子(1866-1939.12.27)の戒名「遍明院殿操室妙琴清大姉」、没年月日、行年は74歳と刻む。なお裏面に琴子の略歴も少し触れている。それによると、秋本倉蔵の二女、養子喜七と結婚して、きく、敏男、正一、毅を生むと刻む。左側が「秋本家之墓」、「新義真言宗智山派管長大僧正純榮書」と正面左側に刻む。裏面「昭和六年五月 秋本敏男 建之」。
*墓所右側に墓誌が建ち「秋本家先祖代々各霊」と刻み、父の喜七から刻みが始まる。母の琴子は俗名を「コト」としている。秋本敏男の戒名は寶照院殿法俊浄敏清居士。子の喜一と続く。
*義伯父で姉の きく の養子先の秋本録之助は武蔵野村の村長を務めていた時、1928(S3)町制施行となり武蔵野町となる。録之助は初代町長に就任。敏男はその後を継ぎ2代目武蔵野町長を務めた。戦後、1947.11.3(S22)市制施行で武蔵野市となる。荒井源吉が初代市長。
*秋本喜七が甲武鉄道(現在の中央線)開業に尽力していた時の武蔵野村は神奈川県に編入されており、住所は神奈川県北多摩郡武蔵野村であった。 1893(M26)東京府の管下に入り、住所が東京府北多摩郡武蔵野村となった。