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きやたけ ゆうほう

喜屋武由放

きやたけ ゆうほう
(きやん ゆうほう)

1926.10(大正15)〜 1995.7.29(平成7)

昭和期の共産党員、三鷹事件

埋葬場所: 18区 1種 21側

 東京出身。マルクス主義者の喜屋武保昌(同墓)の長男として生まれる。父は沖縄出身で東京帝国大学在学中に誕生した。1946(S21)父と同郷の徳田球一(19-1-31-2)の誘いを受けて日本共産党に入党。共産党北多摩地区委員として活動した。
 '49.7.15(S24)夜、中央線三鷹駅を無人電車が暴走し、26人の死傷者を出した「三鷹事件」が発生。この事件の当日、三鷹駅南口の小間物屋の2階で行われていた国鉄三鷹電車区の共産党の会議に出席していた。この会議は捜査当局から三鷹事件を引き起こすための共同謀議を行った秘密の会合とみなされた。出席者の一部がこの会議を抜け出して、元三鷹電車区検査掛の竹内景助とともに無人電車を走らせて事故を起こしたと疑われた。よって、同.8.25 首謀者のひとりとして逮捕起訴される。この時、逮捕された10人のうち竹内景助以外は会議に出席していた共産党員だった。裁判で死刑を求刑されたが、'50 上告審で非共産党員の竹内景助の単独犯行と認定した判決で逆転無罪となり、'55 最高裁判決で確定。
 三鷹事件では無罪であったにも関わらずその後も世間の風当たりは強く苦労した。徳田球一記念の会理事をつとめた。胃がんで逝去。享年68歳。

<「三鷹事件」片島紀男>


墓所

*正面「R.I.P / 永井家 喜屋武家」と刻む墓石の上に球体が乗る。裏面「2017年2月吉日 永井淳一 建之」と刻む。墓所左側に和型「喜屋武家之墓」、裏面「昭和十五年 喜屋武由放建」。右側に墓誌が建つ。保昌から刻みが始まり、戒名は清光院義道保昌居士。妻は奈可(S52.3.12歿・行年73才:春陽院慈学奈可大姉)。由放には戒名の刻みはない。

*墓石正面に刻む「R.I.P」の意味は、英語で「Rest in pace」(レスト・イン・ピース)、ラテン語で「requiescat in pace」の頭文字をとった言葉で「安らかに眠れ」という意味。

きやたけ やすまさ

*元々は墓所左側に建つ「喜屋武家之墓」を正面としていた喜屋武家の墓所であったが、保昌の娘、由放の妹で、永井虎吉(H29.8.27歿・行年91才)に嫁いだ永井保子(H16.5.12歿・行年76才:春陽院慈三保大姉)の永井家との合葬墓所になった。


【三鷹事件】
 1949(S24)年7月15日夜、東京の国電三鷹駅で車庫の無人電車が突然暴走し、駅にいた乗降客6人が死亡、10人が怪我をした。 容疑者として三鷹電車区の検査係ら10人が電車転覆致死罪の共同正犯として起訴されたが、検査係の供述は単独犯、共同犯と揺らぎ続け、判決は一審無期懲役、二審死刑。 他の9人は一、二審とも無罪の判決だった。検査係は最高裁で死刑が確定したが、1967(S42)再審請求中に病死した。
 同時期に起こった下山事件(1949年7月6日)・三鷹事件(同年7月17日)・松川事件(同年8月17日)は世にも不思議な三大事件とされている。

<10大ニュースに見る戦後50年>



第470回 国鉄三大ミステリー事件「三鷹事件」喜屋武由放 お墓ツアー


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