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しもやま さだのり

下山定則

しもやま さだのり

1901.7.23(明治34)〜 1949.7.6(昭和24)

昭和期の日本国有鉄道初代総裁

埋葬場所: 21区 1種 16側 6番

 兵庫県出身。父の下山英五郎は熊本地方裁判長を務めた人物。1925(T14)鉄道省に入り、29(S4)鉄道局技師。36在外研究員を命ぜられヨーロッパ各国を視察・歴遊、37帰国。 同年本省運輸局運転課、39鉄道調査部技師、企画院技師を兼任。40中国・朝鮮・東南アジアへ出張、帰国後企画院技師の専任となる。 44鉄道監に任ぜられ、45東京鉄道局長補佐、同年名古屋鉄道局長、46東京鉄道局長、48運輸次官を歴任。 49国有鉄道が公共企業体となるにおよんで初代総裁に就任したが、同年7月6日午前1時足立区五反野南町の常磐線線路上で謎の死を遂げた(下山事件)。

<コンサイス日本人名事典>


*墓所には、実兄の下山英種(1897〜1962)、下山繁、鎮目謙吾。

*定則とヨシ夫人との間に長男・定彦、次男・俊次、三男・健三、四男・博也の4男をもうけた。

*死体を検分した(執刀は桑島講師)古畑種基(20-1-18)東大教授は、「死後礫断」説(「死体に生活反応が見られず、死後轢断である。 但し、睾丸、局所、手にごくわずかな生前の出血を」みる=他殺説)をとり、これに対し、中館久平慶大教授らは「生体礫断」(自殺説)を主張(中館教授は死体を見ていないし、その意見も医学雑誌に発表したもので、「睾丸と局所の出血は生前なくても飛び込み轢断の死体によく見られる」というのが主な論点)、法医学論争がマスコミをにぎわせる。


【下山事件】
 行政整理の一環として国鉄が9万5000人の人員整理を発表した。 労組が反対闘争に入る中で7月5日、下山定則総裁が登庁の途中、日本橋三越に立ち寄ったあと行方不明となり、翌6日朝、常磐線北千住ム綾瀬間の線路上で轢死体となって発見された。 東大法医学教室の解剖では死後轢死とされ、他殺説が有力だったが、後に下山氏の足どりから自殺説が強くなった。しかし、自他殺不明のまま未解決に終わった。

<10大ニュースに見る戦後50年>


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