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きやたけ やすまさ

喜屋武保昌

きやたけ やすまさ
(きやん やすまさ)

1902(明治35)〜 1939.11.3(昭和14)

大正・昭和期のマルクス主義者

埋葬場所: 18区 1種 21側

 沖縄県豊見城村出身。浦和高校から東京帝国大学経済学部に進学。新人会のメンバーに属しておりマルクス主義者であった。在学中に「三鷹事件」で逮捕されるも裁判で逆転無罪となる長男の喜屋武由放(同墓)が誕生した。
 その頃、当時順天中学生だった沖縄出身の瀬長亀次郎(1907.6.10〜2001.10.5)と知り合い、池袋でアパートを見つけて二人で共同生活を始めた。瀬長は喜屋武から資本主義社会のカラクリ理論を学び、ソ連関係の書籍を借りて読書するようになって、次第にマルクス主義的な視野から日本社会の現実を考察するような習慣を身につけていった。瀬長のその後は、労働運動に加わり投獄されたが、保釈後、中国で兵役に服しながらも軍隊内で反戦活動をした。戦後は、沖縄人民党を結成し書記長として本土復帰運動の先頭に立ったが、'54アメリカ占領軍の弾圧を受け投獄。'56那覇市長に当選したが、翌年追放。'70衆議院議員。幾たびの弾圧に襲われたが、不屈の闘志で復活を果たした。瀬長の社会運動家の地盤を固めたのが喜屋武保昌であったことは特筆したい。
 '36同郷の仲間で、同窓の宮城与徳(17-1-21-16)と東京で再会。宮城与徳の作品に「喜屋武保昌氏肖像画」がある。享年37歳。


墓所

*正面「R.I.P / 永井家 喜屋武家」と刻む墓石の上に球体が乗る。裏面「2017年2月吉日 永井淳一 建之」と刻む。墓所左側に和型「喜屋武家之墓」、裏面「昭和十五年 喜屋武由放建」。右側に墓誌が建つ。保昌から刻みが始まり、戒名は清光院義道保昌居士。妻は奈可(S52.3.12歿・行年73才:春陽院慈学奈可大姉)。由放には戒名の刻みはない。

*墓石正面に刻む「R.I.P」の意味は、英語で「Rest in pace」(レスト・イン・ピース)、ラテン語で「requiescat in pace」の頭文字をとった言葉で「安らかに眠れ」という意味。

きやたけ やすまさ

*元々は墓所左側に建つ「喜屋武家之墓」を正面としていた喜屋武家の墓所であったが、保昌の娘、由放の妹で、永井虎吉(H29.8.27歿・行年91才)に嫁いだ永井保子(H16.5.12歿・行年76才:春陽院慈三保大姉)の永井家との合葬墓所になった。


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