東京府北多摩郡三鷹村(東京都三鷹市)出身。鈴木作右衛門の三男。鈴木作右衛門は三鷹村新川の小地主で、当時の三鷹村で27人しかいなかった公民のひとり(第1回総選挙で選挙権を持っていた人)。また大正期には三鷹村の井上銀三村長の助役を務めた。
祖父は長崎のシーボルト塾に学び、北白川宮の個人侍医であった。そのため、父の命により不本意ながら医学の道を進まされる。自伝『挑戦 20 年−−わが市政』には、「無理に押し込まれたので医学には興味がなく、ただドイツ語だけは熱心に身を入れて勉強した。たまたま当時ドイツから洋行帰りの先生にマルクスの『資本論』の原書を与えられ、学習の指導をうけた。熱心に取り組んだのはその本の内容ではなく、ただドイツ語の学習のためであった。しかし、その数年間の学習は、大きく私の将来に影響を与えることとなった」と回想している。
1930(S5)日本大学医学部卒業。卒業後、母校の産婦人科教室に入り助手となり、その傍ら公立病院で臨床にも従事。この時期に対応した患者は医療扶助患者であり、貧民窟と言われた地区の患者であったのでひどく貧困であった。その患者の入院、治療、死亡、埋葬までに深くかかわる(埋葬費を負担したこともある)。「貧困な者には病人が多い。病人を抱えると貧困に陥る。環境の悪いあばら家に住むと病人が多くなる。同じ人間でありながら−−考え込むことが再々であった」と貧困の実態を克明に知り、貧困と環境の関係を身をもって学んだ。
'33 三鷹下連雀に産婦人科医院を開業するとともに、社会大衆党員として社会主義運動に入る。'37.3 三鷹村村会議員に当選。社会党の中村高一のもとで政治活動を始める。'38.1 軍医予備員候補者として立川陸軍病院に入隊。'40 三鷹町議となるも、同.11 臨時召集により近衛歩兵第 4 連隊補充隊に応召され、同.12 中国山西省に転属。以後、北京、天津、蒙古の平地泉など中国大陸を軍医として終戦まで転戦。最終階級は陸軍軍医大尉。'46.4 復員。
復員後、再び中村高一との友好が実り日本社会党入党、北多摩支部長になる。貧困と疾病の実態を統計的に学問的に調査したいと思い母校の公衆衛生学教室にて疫学研究に取り組む。'54 年末に論文「貧乏と疾病などの衛生統計」で公衆衛生学の医学博士号を取得。この時、48歳であった。この間、'48 三鷹町公安委員長を歴任。
'55.4(S30)渡邉萬助(20-1-58)の後を継いで、初めて投票が行われた三鷹市長選に社会党左派から立候補し当選。同.5.1 第3代目三鷹市長に就任し、'75(S50)まで5期20年間務め、現在の三鷹市の礎を築いた。
鈴木市政の基本理念は「生命の尊重とその生存の平等の享有」をめざし高環境、高福祉のまちづくりを進めていった。その実現のため、まず第一に市民の健康予防として生活環境整備を充実していく。住民の平等な健康づくりや、住民によるまちづくりの場、また市民の育成の場であるコミュニティセンター建設を行う。市長として特筆すべきことは、'73 全国初となる公共下水道普及率100%といった偉業を達成させた。その他、市職員を百貨店で研究させたり、庁舎内を禁煙化させるなど独創的な政策も打ち出した。東京都市長会会長、全国市長会副会長を務めた。
退任後、全国市長会特別表彰、市政功労表彰、保健文化賞、勲3等旭日中綬章(1976)。'80 三鷹市名誉市長に選出された。他に日本大学講師、学校法人日本学園理事長、杏林大学医学部客員教授、西白河病院長などを務めた。医学博士。正5位。享年77歳。