高倉家(藪家)は公家・閑院家・四辻支流・150石(家禄は初め180石だったが、後に150石に減らされた)。家業は箏と神楽。藤原南家の末裔で、後白河法皇の近臣として従二位に昇った藤原範季が祖。戦国時代末に13代当主の高倉範遠で断絶するが、江戸時代初期に権大納言四辻公遠の子の嗣良(1593-1653)が断絶していた高倉家を再興して、1637(寛永14)藪家に改称。 篤麿は25代当主にあたる。祖父の23代当主の藪実方(さねふさ)は勘解由小路光宙の子。父で24代当主は藪実休(さねたる:同墓)。
東京出身。藪實休の二男として生まれる。1882(M15)父の藪實休の没後、2歳にして家督を継ぎ、1884.7.8 祖父の藪實方が亡くなり、4歳にして子爵を叙爵。1890 従5位に叙し、明治天皇の侍従職出仕。学習院を経て、明治大学政治科を卒業し、1898 主獵官に任ぜらた。
1913(T2) 明治天皇崩御もあり侍従を辞して、'14.1.24 貴族院子爵議員補欠選挙で当選。研究会に所属し、'40.2.20(S15)までつとめた。この間、'36(S11)元々の姓である高倉に復し、以降、藪から改めて高倉の姓を名乗る。
貴族院辞任後、'40 伊勢神宮大宮司に就任。戦争戦後を経て、'51 まで在任した。旧堂上華族保護資金調査委員も務めている。享年84歳。
*墓所には3基建ち、正面に2基並び、右側に地蔵墓石が建つ。正面右は宝篋印塔で「為 藤原南家之裔 高倉家先祖代々各霊菩提」と刻む。台座の左面「昭和十二年十一月吉祥日 功徳主 高倉篤麿 室 篤子」。左側の墓石正面「清巌院殿梅香陽岳大居士」、右面「明治十五年三月六日 先考 實休」、左面「昭和十一年十二月吉祥日建之 高倉篤麿」と刻む。この墓石は高倉篤麿が建立した父の藪実休の墓石。左隣りの墓所は親戚関係の河鰭家の墓所である。
*高倉篤麿の父の藪實休(1857-1882)は、祖父の藪實方よりも二年早くなくなっているため、家督や子爵を相続していない。祖父の藪實方が、1884亡くなり、高倉篤麿が家督と子爵を相続している。なお、祖父の藪實方の墓は青山霊園、父の藪實休の墓は北青山の善光寺に建てられた後、この多磨霊園に改葬されたが、善光寺の無縁墓地に墓石が残されている。
*祖父の藪實方の長男が父の藪實休であるが、實休の妹の嶺子は子爵の鳥居忠文に嫁ぎ、その長男が鳥居忠一(12-1-7-1)。
*高倉篤麿の妻の篤子(1880.2.15-1959:同墓)は公爵の三条実美の6女。隣の墓所の河鰭実文は三条実美の弟であり、河鰭実文の長男の河鰭公篤に男子が恵まれなかったため、三条実美の4男の実英が、河鰭公篤の養嗣子となり河鰭実英として家督を継いだ。河鰭実文の長男は天文学者の河鰭公昭である。
*高倉篤麿と篤子の間にも子どもに恵まれなかったため、子爵の土御門晴善の子の範忠(1920-1994)と河鰭実英の3男の公朋が養子となった。高倉範忠(允光)は、1944 兄の土御門熙光が亡くなったため、急きょ土御門家へ戻り、土御門範忠に復して子爵を相続した。高倉家は高倉公朋(同墓)が相続することとなった。