京都出身。内大臣の三条実万の五男で、公爵の三条実美とは兄弟。1869(万延1)右近衛権中将の河鰭公述(きんあきら)の養子となった。河鰭家は公家・閑院家・滋野井支流・神楽・150石。
1868(M1)戊辰戦争の際、錦旗奉行及び大総督府参謀として功を立てた。安政勤王八十八廷臣の一人。右少将正四位下、従五位。1869兄の実美の命により薩摩に赴き西郷隆盛の東上を促した。1870東京府出仕となり、東京府権少参事となった。翌年、秋月種樹(日向高鍋藩主家)と英国に留学し、英国貴族の政治活動に影響を受け1872帰国。1873英国議会を目指すべきだという志の元、通款社を設立。岩倉具視の監督で華族会館を経て、華族組織のベースが作られた。これは宗秩寮の源流とされている。1885.7.8(M17)子爵を授爵。内務省御用掛、内務権少書記官、元老院議官、貴族院議員を歴任した。享年65歳。
妻は公家・子爵倉橋家の久子(同墓)。実文没後は河鰭公篤(1857〜1922.10.19 同墓)が子爵を継ぐが、後の後継者不在のため、三条実美の四男の実英を養子として、公篤没後、河鰭実英(同墓)が家督を継いだ。
<現代日本人名録 物故者編> <森光俊様より情報提供>
【宗秩寮(そうちつりょう)の源流】
河鰭実文は、維新後に秋月種樹(日向高鍋藩主家)と英国に留学した。
英国の上院議員は貴族から選出されており、英国貴族たちが政治的に活発に活動しているさまを見て感動し、1872帰国後、華族仲間にはたらきかけて、1873.12英国のようにわが国も他日、必ず議会開設のこととなるだろうが、それに備えて華族の会館を設け、大いに議院の議法を講習すべきだとの考えの元、通款社という結社を七名の同志とともに立ち上げた。
より多くの賛同者を募るため、華族の中心人物の太政大臣で兄の三条実美と、右大臣の岩倉具視の両名に陳情を行った。
岩倉はその行動に激励し、同様の他団体との合併を勧め、1875.6.1永田町の華族集会所において華族会館を設立させた。
河鰭が目指すイギリス議会の勉強の志しとは裏腹に、岩倉はむしろそのような行為を忌むべきものと考えており、自由民権論や憲法制定論には反対の立場を取り、華族会館に対する厳しい干渉を行った。
河鰭たちが作成した講義内容の定めを認めず、岩倉は西洋の法律よりもわが皇朝古今の法律制度を学ぶべきだと、河鰭らの理念と真っ向から対立した。
岩倉は自分の正反対の立場を取る河鰭に賛意を示した真の狙いは、華族の同族化と王政護持であったため、華族会館を利用しようとしていたのである。
明治初頭の華族は、公家と武家という「別族」が、融和しないまま華族の名の下に括られている有り様であった。
意識も考え方も、目指す方向も違い、しかも旧大名だった武家華族は廃藩置県で領地を失い、公家華族は新政府により東京移住を余儀なくされ、両者とも一種の失業状態である。
新たな支配階級たり得ない状況で、岩倉は華族を天皇の藩屏とすることで、特権階級たらしめようと考えたのである。
華族全員が会員となる組織の存在は、そのための指導・統括機関として、まことに好都合だった。
しかも組織はそのまま王権護持にも使える。京都から見知らぬ東京へと行幸された天皇を守るために、華族の団結が必要であったのだ。
このようなベースが宗秩寮の源流とされている。宗秩寮はその後、数度名を改め、華族の監督部局である宮内省宗秩寮が1910.8.22(M43)設置された。
<歴史読本 華族・宮家 名門の肖像 華族の〈監督〉官庁>
第194回 尊王攘夷派の公家 貴族院議員を提案した人 川鰭実文 お墓ツアー 日本の華族制度
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