メイン » » » 河鰭実文
かわばた さねふみ

河鰭実文

かわばた さねふみ

1845.4.5(弘化2)〜 1910.7.16(明治43)

明治期の政治家、子爵

埋葬場所: 21区 1種 10側

 京都出身。内大臣の三条実万の五男で、公爵の三条実美とは兄弟。1869(万延1)右近衛権中将の河鰭公述(きんあきら)の養子となった。 河鰭家は公家・閑院家・滋野井支流・神楽・150石。
 1868(M1)戊辰戦争の際、錦旗奉行及び大総督府参謀として功を立てた。安政勤王八十八廷臣の一人。右少将正四位下、従五位。 1869兄の実美の命により薩摩に赴き西郷隆盛の東上を促した。1870東京府出仕となり、東京府権少参事となった。 翌年、秋月種樹(日向高鍋藩主家)と英国に留学し、英国貴族の政治活動に影響を受け1872帰国。 1873英国議会を目指すべきだという志の元、通款社を設立。岩倉具視の監督で華族会館を経て、華族組織のベースが作られた。 これは宗秩寮の源流とされている。1885.7.8(M17)子爵を授爵。内務省御用掛、内務権少書記官、元老院議官、貴族院議員を歴任した。享年65歳。
 妻は公家・子爵倉橋家の久子(同墓)。 実文没後は河鰭公篤(1857〜1922.10.19 同墓)が子爵を継ぐが、後の後継者不在のため、三条実美の四男の実英を養子として、公篤没後、河鰭実英(同墓)が家督を継いだ。

<現代日本人名録 物故者編>
<森光俊様より情報提供>


【宗秩寮(そうちつりょう)の源流】
 河鰭実文は、維新後に秋月種樹(日向高鍋藩主家)と英国に留学した。 英国の上院議員は貴族から選出されており、英国貴族たちが政治的に活発に活動しているさまを見て感動し、1872帰国後、華族仲間にはたらきかけて、1873.12英国のようにわが国も他日、必ず議会開設のこととなるだろうが、それに備えて華族の会館を設け、大いに議院の議法を講習すべきだとの考えの元、通款社という結社を七名の同志とともに立ち上げた。 より多くの賛同者を募るため、華族の中心人物の太政大臣で兄の三条実美と、右大臣の岩倉具視の両名に陳情を行った。 岩倉はその行動に激励し、同様の他団体との合併を勧め、1875.6.1永田町の華族集会所において華族会館を設立させた。
 河鰭が目指すイギリス議会の勉強の志しとは裏腹に、岩倉はむしろそのような行為を忌むべきものと考えており、自由民権論や憲法制定論には反対の立場を取り、華族会館に対する厳しい干渉を行った。 河鰭たちが作成した講義内容の定めを認めず、岩倉は西洋の法律よりもわが皇朝古今の法律制度を学ぶべきだと、河鰭らの理念と真っ向から対立した。 岩倉は自分の正反対の立場を取る河鰭に賛意を示した真の狙いは、華族の同族化と王政護持であったため、華族会館を利用しようとしていたのである。 明治初頭の華族は、公家と武家という「別族」が、融和しないまま華族の名の下に括られている有り様であった。 意識も考え方も、目指す方向も違い、しかも旧大名だった武家華族は廃藩置県で領地を失い、公家華族は新政府により東京移住を余儀なくされ、両者とも一種の失業状態である。 新たな支配階級たり得ない状況で、岩倉は華族を天皇の藩屏とすることで、特権階級たらしめようと考えたのである。 華族全員が会員となる組織の存在は、そのための指導・統括機関として、まことに好都合だった。 しかも組織はそのまま王権護持にも使える。京都から見知らぬ東京へと行幸された天皇を守るために、華族の団結が必要であったのだ。 このようなベースが宗秩寮の源流とされている。宗秩寮はその後、数度名を改め、華族の監督部局である宮内省宗秩寮が1910.8.22(M43)設置された。

<歴史読本 華族・宮家 名門の肖像 華族の〈監督〉官庁>


*高倉篤麿の夫人の篤子は、三条実美の娘であるので、河鰭実文にとっては姪にあたる。

*河鰭家墓所は、右から河鰭家代々の五輪塔、真ん中が河鰭実文夫妻の墓石、左が河鰭公篤の墓石であり、右側手前に墓誌がある。 墓誌に河鰭実英の名を見るとこができる。なお、高倉篤麿夫妻の墓所は右隣りである。

*三条実美の墓は護国寺

*河鰭家墓所は、元々北青山の善光寺にあり、ここの無縁墓地に河鰭実文、河鰭公篤、藪(高倉)實休の墓碑が残されている。 青山霊園にも河鰭実利の夫人と高倉篤麿の祖父である藪實方の墓碑がある。

<もへい様より情報提供>


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・か | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。