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かわばた きんあき

河鰭公昭

かわばた きんあき

1928.3.2(昭和3)〜 2011.11.8(平成23)

昭和・平成期の天文学者

埋葬場所: 21区 1種 10側

 東京出身。祖父は幕末の尊王攘夷討幕派の中心人物で公爵の三条実美、父は子爵で日本服装史家の河鰭実英(同墓)。父は子爵の河鰭公篤(同墓)の養子であり、公篤は三条実美の弟である河鰭実文(同墓)の長男である。河鰭実文は公家・子爵・貴族院議員を提唱した政治家。母方祖父は伯爵の亀井茲明。実英と祥子の4男4女の二男として生まれる。兄の公功が30歳の若さで亡くなったため家督を継ぐ。なお、弟の公朋は隣りの墓所である子爵の高倉篤麿の養子となった。
 東京大学理学部天文学科卒業。東京天文台助教授を経て、1967 名古屋大学理学部教授に就任。東京天文台で太陽電波の研究を行う。1960(S35)太陽フレア時の電離層の変動から太陽軟X線の存在を世界に先駆けて予測し、その後の衛生によるX線観測を刺激した。この予測は、'81 打ち上げられた「ひのとり」において指針となった。また、わが国の大型宇宙電波望遠鏡計画の立案期には、大型電波望遠鏡ワーキンググループの主要メンバーとして、野辺山の宇宙電波望遠鏡計画の実現に向けて尽力した。
 一方、研究対象を宇宙に広げるとともに、クエーサーの電波のファラデー回転を藤本光昭(名古屋大学名誉教授)、祖父江義明(明星大学教授)と共同で調べ、数十億光年の彼方まで10の−9乗ガウスの均一宇宙磁場が存在することを示唆した。これはその後、銀河磁場の起源に関する観測・理論の研究へと発展した。さらに、'82 からは新たに星間空間の一酸化炭素分子スペクトルの観測計画をスタートさせ、口径4メートルの短ミリ波望遠鏡などを仲間たちと建設し、宇宙電波分光学の発展に貢献した。なお、この望遠鏡により多数の星形成領域が発見され、南米チリのNANTEN2望遠鏡へと発展している。
 50代からソフトウェアを学び、当時最先端のミニコンピュータを駆使して4メートル望遠鏡の駆動制御システムを開発した。'83 日本天文学会副理事長。停年退官し名古屋大学名誉教授。定年後も成層圏オゾンのミリ波観測、古文書の日食記録の検証なども行った。享年83歳。東京都武蔵野市のカトリック吉祥寺教会で告別式が行われた。

<「河鰭公昭先生を偲んで」福井康雄(名古屋大学)>
<人事興信録など>


墓所
かわばた さねふみ 墓所

*墓所には4基建ち、正面に3基並び、入口右手側に地蔵墓石が建つ。正面右は宝篋印塔で「為 河鰭家先祖代々各霊菩提」と刻む。正面真ん中が河鰭実文の墓石であり、前面「光照院殿無量眞實日文大居士 / 照静院殿寶徳妙久日遠大姉」、右面「明治四十三年七月十六日 先考 實文 / 昭和十一年五月二十九日 先妣 久子」と刻む。左隣は実文没後に家督を継いだ河鰭公篤の墓石であり、前面「本光院殿壽量公篤日浄大居士 / 華光院殿清香妙為日果大姉」、右面「大正十一年十月十九日 先考 公篤 / 昭和十二年二月三日 先妣 為子」と刻む。右側に墓誌も建ち、祥子(S20.7.19没・49才:実英の妻・伯爵の亀井茲明の娘)、公功(S22.3.20没・30才:実英の長男)、実英(墓誌には「實英」)、公昭(S3.3.2-H23.11.8:天文学者)が刻む。河鰭実英の戒名は徳壽院殿法實文英日明大居士。河鰭公昭はルカと刻む。


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