東京出身。行政裁判所評定官の関口健太郎、たけよ(共に同墓)の6男。
1938.3.16(S13)海軍兵学校卒業(65期)。同期に硫黄島の戦いの名パイロット東森隆(後に少佐:16-1-13)、岡崎貞伍の子の岡崎邦城(後の海軍少佐:20-1-21)、根岸莞爾の子の根岸朝雄(後の海軍少佐:22-1-50)、國生行孝の子の國生直扶(後の海軍少佐:8-2-30)、九軍神の一人の岩佐直治、徳川慶喜の孫(9男の誠の息子)の徳川熙、戦後自衛隊海将となる石隈辰彦らがいた。同.11.15 少尉に任官。'39.11.15 中尉、'41.10.15 大尉に進級。
'43.4.15 最新大型潜水艦の伊号第7潜水艦水雷長に就任。司令玉木留次郎大佐、艦長長井勝彦少佐、航海長花房義夫大尉。アッツ島の戦いの支援のために横須賀を出港し、アッツ島に向かったが、到着前にアッツ島の放棄が決まったため、第1期キスカ島撤退作戦に参加するべくキスカ島に移動。
同.6.21 七夕湾南1浬地点付近を航行中、米駆逐艦モナハンと遭遇し戦闘が行われる。司令塔右舷側に砲弾2発が直撃して穴があいてしまい、潜航不能となる。この被弾により第7潜水隊司令玉木留次郎大佐、艦長長井勝彦少佐、航海長花房義夫大尉、操舵手他3名が戦死し、通信長中山泰一中尉が負傷した。水雷長の関口六郎大尉の指揮により潜航は中止され、主砲と機銃で応戦しながら退避する。この戦闘で、伊7は主砲弾30発、機銃弾250発を発射した。戦闘の混乱により後部バラストタンクのバルブが解放されたままであったため船体は沈下を続け、沈没を防ぐために旭岬に艦首が擱座され、一旦放棄された。暗号員はこの時すべての機密文書を破棄し、暗号機を破壊し、その破片を艦外に投棄した。
伊7の乗員は陸上との連絡に成功し、大発2隻が伊7の近くに到着。積荷の一部が積み替えられ、伊7は横須賀に向かうこととなった。司令塔の穴は大発で輸送されてきた溶接器により塞がれた。翌日までには残りの積荷と戦死者の遺体が運び出された。その後乗員は伊7に戻り、機密文書等は大発で輸送されてきたものが新たに積載された。伊7は離礁し、応急修理完了するも、潜航はできないままだった。
伊7は七夕湾を出港。しかし、キスカ島南方沖を哨戒していたモナハンが13km先にある伊7を再度レーダー探知し、接近したのち砲撃を開始。航行中の伊7は左舷側からの砲撃を受け、司令塔とブルワーク、後部バラストタンクに砲弾が命中。これにより関口水雷長は瀕死の重傷を負い、機関長が戦死した。伊7は応戦したが、モナハンからの砲弾が命中したことにより操舵機が使用不能となり、左舷側にゆっくりと回頭しはじめた。さらに砲弾1発の命中によりデッキに置かれていた弾薬が誘爆して発火。さらに後部デッキに砲弾2発が直撃して穴が開いたため、伊7は左に30度ほど傾斜。そして弾薬が尽きる。その後、伊7は左舷に50度ほど傾斜しながらキスカに向かう。伊7はキスカ島守備隊へ、被害と到着時刻を報告する。5分後、伊7は艦尾から急速に沈みながら、北緯51度49分 東経177度20分のキスカ島中央東端の南水道二子岩に左舷に70度ほど傾斜し、20度ほど艦首側を上にして傾斜し、艦首約15mを水上に露出した状態で擱座した。
瀕死の状況であった関口は間もなく戦死。享年27歳。没後1階級特進し少佐となる。なお伊7は関口含め乗員87名が戦死、生存者43名。