東京出身。東森蔵の子。兄弟に東健一(陸軍技術兵長:小倉陸軍病院にて32歳の若さで没)、森洋(地区軍兵長:西ニューギニアにて36歳で戦死)がいる(全て同墓)。
府立八中を経て、1938.3.16(S13)海軍兵学校卒業(65期)し、少尉候補生となる。同期に岡崎貞伍の子の岡崎邦城(後の海軍少佐:20-1-21)、根岸莞爾の子の根岸朝雄(後の海軍少佐:22-1-50)、國生行孝の子の國生直扶(後の海軍少佐:8-2-30)、関口六郎(後の海軍少佐:20-1-10)、九軍神の一人の岩佐直治、徳川慶喜の孫(9男の誠の息子)の徳川熙、戦後自衛隊海将となる石隈辰彦らがいた。
'39.11.15中尉、'41.10.15大尉に昇進し、横須賀航空隊に着任。海軍航空隊の一員として支那事変に従事し、鹿屋航空隊に属していた時は、中国戦線にて九七陸攻にて大陸を駆け巡った。機種はやがて一式に移行したが、森はこの新型機を軽々と乗りこなした。
飛行中は敵艦隊に気づかれるリスクがあったため、無線は封止され、空中電話や電信での連絡は可能であったが、それも避け、気づかれないように接近するために、飛行高度を落とすことで、レーダー電波を避ける超低空飛行を試みなければならなかった。操縦は難しく、機体を安定し、まるで海面を這うようにして飛ぶわけであるが、森の操縦技術は陸軍でもトップクラスであったという。硫黄島の戦い、南太平洋にて戦死。没後特進し海軍少佐。