江戸出身。幕府用達土方政五郎の妾腹の子。本名は中村榮太郎。俳名を梅莟・梅玉・魁玉。屋号は成駒屋。定紋は祇園守、替紋は裏梅。1875(M8)4代目中村芝翫(同墓)の養子。
1877初代中村児太郎として甲府三井座「伊勢音頭」の油屋息子で初舞台。1881(M14)4代目成駒屋中村福助を襲名。
1884「助六所縁江戸桜」で三浦屋揚巻に抜擢され、9代目市川團十郎の助六の相方をつとめ、以後、團十郎や5代目尾上菊五郎の相方を務める。
1887井上馨の邸宅で行われた展覧歌舞伎も務めた。美貌と品のある芸風で人気を集めた。1901(M34)5代目中村芝翫を襲名。'04坪内逍遥作「桐一葉」で淀君を演じ新境地を開いた。
'11(M44)5代目中村歌右衛門を襲名。15代目市村羽左衛門、11代目片岡仁左衛門とともに「三衛門」と呼ばれ、明治の〈団菊〉(9代目市川團十郎・5代目尾上菊五郎)亡きあとの歌舞伎界を統率した。
'31(S6)歌舞伎座で鴈治郎と舞台を共にした「山門」の五右衛門が、東西成駒屋の火花を散らす舞台として有名。鉛毒で不自由になった身体を押して舞台に立ち「東西随一の女形」と称された。
当たり役は「京鹿子娘道成寺」の白拍子花子、「助六所縁江戸桜」の三浦屋揚巻、「山門」の石川五右衛門など多数あるが、生涯の当り役としたが、「桐一葉」「沓手鳥孤城落月」などの淀君であり、お家芸としていた。
歌舞伎座幹部技芸委員長に就任し、歌舞伎伝統芸能の発展と向上に尽力。また東京俳優組合の発足に寄与、後に大日本俳優協会に発展し初代会長を務めた。享年73歳。妻は河村たま。長男は5代目成駒屋中村福助(同墓)、次男は6代目中村歌右衛門。
<コンサイス日本人名大事典> <講談社日本人名大辞典など>
*中村歌右衛門の初代、3代目、6代目は青山霊園(1種イ1区-10側17番:加賀屋代々墓)に眠る。5代目も分骨されている。
5代目の長男である5代目中村福助以降は多磨霊園、次男である6代目中村歌右衛門以降は青山霊園と推察する。
なお、5代目中村歌右衛門の門弟である3代目中村翫右衛門の墓は多磨霊園25区1種49側(三井家)にある。
第29回 歌舞伎 成駒屋 中村歌右衛門 中村芝翫 中村福助 墓参りツアー ※再UP
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