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なかむら ふくすけ

中村福助(成駒屋5代目)

なかむら ふくすけ

1900.5.10(明治33)〜 1933(昭和8)

明治・大正・昭和期の歌舞伎俳優(成駒屋)

埋葬場所: 2区 1種 13側 5番

 東京築地出身。本名は中村慶次。5代目中村歌右衛門(同墓)の長男。弟に6代目中村歌右衛門。屋号は成駒屋。定紋は祇園守。俳名に梅莟、啾雨。
 1904.7(M37)4歳の時に東京座で2代目中村児太郎を襲名し、「仮名書太平記」の塩谷の息・竹若で初舞台。'16(T5)東京で5代目中村福助を襲名。 当たり役は、「京鹿子娘道成寺」の白拍子花子、「春興鏡獅子」の女小姓・弥生、「妹背山婦女庭訓」の雛鳥、「籠釣瓶花街酔醒」の八橋、「仮名手本忠臣蔵・九段目」の小浪など多く、初代中村吉右衛門の相方をつとめることが多かった。 容貌にめぐまれ、女形で所作事にすぐれ、将来を嘱望されていた時、神奈川県葉山の別荘にて、腹膜炎と胸病を併発して急死。享年33歳。子は7代目中村芝翫(同墓)。
 中村福助という名は明治初年から昭和中頃まで約100年間もの間、同時期に二人の福助が常に存在していた。東京の福助は成駒屋、大阪の福助は高砂屋である。 東京で6代、大阪で3代続き、それぞれの福助はもう一方の存在を認めないという異常な状態が続いた。このようになった理由は、1867(慶応3)大阪に来演中であった2代目中村福助が29歳の若さで急死。 興行主にとっては大問題であり、この窮地を乗り切るために、2代目福助の門人であり芸風も似ていた4代目三桝他人を口説き落とし、その気にさせて福助を襲名させた。 しかし、東京では2代目高弟である2代目中村政次郎が、師匠の前名を受け継ぐ準備をしており、同時期に東京と大阪でそれぞれが3代目福助を襲名したという経緯があった。 以後どちらも譲らず、「福助」が二系統に割れたまま、東京では成駒屋中村福助として「歌右衛門」と「芝翫」双方の前名となり、大阪では高砂屋中村福助として「梅玉」の前名となって定着した。 それから約100年後、1969(S44)高砂屋5代目福助が死去すると、高砂屋では家系が絶える。ここで遺族はあえて高弟を養子に取らず、「中村福助」の名跡をこの際、成駒屋に返上することを申し出た。 これを受けた6代目中村歌右衛門は、自らの養子である2代目加賀屋福之助をいったん成駒屋の8代目中村福助とした上で、1992(H4)に高砂屋の4代目中村梅玉とした。 これにより、分裂していた「中村福助」の名跡は統合され、屋号は違うが「中村梅玉」の名跡も事実上、成駒屋の傘下に組み込まれることになったのである。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<歌舞伎事典など>


なかむら ふくすけ 碑

*墓所入口に標石「成駒屋 中村家累代墓」とあり、葺石墳墓が建つ(無刻)。墓誌がある。墓所は5代目中村歌右衛門建之。

*同墓所には4代目中村歌右衛門の養子の4代目中村芝翫、芝翫の養子の5代目中村歌右衛門、歌右衛門の長男である5代目中村福助、福助の長男である7代目中村芝翫が眠る。

*7代目中村芝翫の長男は9代目中村福助、その子が6代目中村児太郎。次男は3代目中村橋之助で妻はタレントの三田寛子。 二人の子は長男が初代中村国生、次男が初代中村宗生、三男が初代中村宜生。長女の光江は家芸の中村流を継いだ日本舞踊家で2代目中村梅彌。 次女の好江は18代目中村勘三郎(2012中村勘九郎襲名予定)に嫁ぎ、その子は2代目中村勘太郎、2代目中村七之助である。なお、2代目中村勘太郎の妻は女優の前田愛。その間に男児を儲けている。


家系図

*中村歌右衛門の初代、3代目、6代目は青山霊園(1種イ1区-10側17番:加賀屋代々墓)に眠る。5代目も分骨されている。 5代目の長男である5代目中村福助以降は多磨霊園、次男である6代目中村歌右衛門以降は青山霊園と推察する。 なお、5代目中村歌右衛門の門弟である3代目中村翫右衛門の墓は多磨霊園25区1種49側(三井家)にある。


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