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もりた かんや

守田勘弥

もりた かんや

江戸前記より14代を数える

歌舞伎役者

埋葬場所: 1区 1種 6側 8番

元祖 森田勘弥
 ?〜 1701.4.10(元禄13)
 森田(守田)座の座元。森田太郎兵衛(?〜1664)が、1660(万治3)江戸木挽町に森田座を創設した。 江戸時代初期、小唄や即興の酒落を得意とし、“宇奈木(うなぎ)太郎兵衛”と通称された。晩年名は友楽。 太郎兵衛は俳優でなかったために、初代坂東又九郎をパ−トナーに迎え、又九郎の次男の坂東又七を養子にして、森田太七と改名させた。 翌年、太七に勘弥を名乗らせ森田座を譲った。つまり、守田家の元祖は太郎兵衛だが、勘弥という名跡はこの又七が初代となる。 その後、新しい勘弥が誕生すると前の勘弥が又九郎を襲名し、又九郎の名跡も平行して続いて行った。


*諸説が人名辞典によって異なるため、後世に書かれた由緒書を元に石橋健一郎氏が執筆した『守田勘弥と守田座の歴史』を元に引用しています。また、歿年月日にも諸説があるが、墓誌を優先した。


2代 森田勘弥
 ?〜 1735.6.19(享保19)
 初代勘弥の兄の坂東又次郎の子の又吉が2代目を襲名した。初代森田勘弥の甥。初名は坂東又吉で、初代没後に勘弥を襲名。 1699(元禄12)弟に3代を継がせて、2代目坂東又左衛門と改名。翌年、2代目坂東又九郎となり、江戸森田座の座元をつとめる。 小唄、説教節の名手。


3代 森田勘弥
 ?〜 1722.2.24(享保7)
 初代勘弥の兄の坂東又次郎の子であり、2代目勘弥の弟。初名は坂東福松。前名は2代目坂東又次郎。 1699(元禄12)2代目に譲り受け、勘弥を襲名。道行所作事、拍子事にたくみだった。 1712(正徳2)兄の子に4代目を継がせ、3代目坂東又九郎として江戸森田座の座元をつとめる。


4代 森田勘弥
 ?〜 1743.9.17(寛保3)
 2代目勘弥の息子。初名は坂東鍋太郎。前名は4代目坂東又次郎。俳名は真鳥。 1712(正徳2)4代目を襲名するが、その時の森田座は累積する負債のため、経営が立ち行かなくなっていた。 1734(享保19)借財のため江戸森田座は休座となり、河原崎座が興行を代行。再興をみずに死去した。

*当時の江戸では森田勘弥の森田座、中村勘三郎の中村座、市村宇左衛門の市村座(山村長太夫の山村座は「江島生島事件」とよばれる不祥事のために取り潰された)の三座に限って芝居興行を幕府によって公認され、特権的地位を保有されていた。 経営不振の森田座は、三座以外でかつて芝居興行に携わった者の子孫のうちから、希望者を募って籤を引かせ、森田座の興行権を代行させることにした。 この籤に当たったのが河原崎権之助の河原崎座で、以後も森田座が経営不振に陥った時には、必ず河原崎座が木挽町の芝居を代行した。 こうしたことは、のちに中村座や市村座でも起こり、この制度を「控え櫓(仮櫓とも)」という。


5代 森田勘弥
 ?〜 1765.10.2(明和2)
 4代目勘弥の母方の血縁で、宝来屋金七の子という。幼名は金蔵。俳名は杜光。1744(延享1)森田座の養子となり、5代目勘弥を襲名し、森田座を再興した。 病気のため、1751(宝暦1)娘婿の2代目沢村小伝次を6代目勘弥として譲り、隠居した。後名は森田又左衛門。

*五代目以後は、劇場主、興行権名義と実質的な興行者が一本化した「座元」として、代々継承されていくことになるが、森田座は、こののちも幕末までしばしば休座し、河原崎座に代行をさせた。


6代 森田勘弥
 1724(享保9)〜 1780.5.19(安永9)
 狂言作者の初代中村重助の子で、初代沢村宗十郎の弟子となって竹中重の井から2代目沢村小伝次となる。 俳名は賀尉、残杏。屋号は喜の字屋。1751(宝暦1)5代目勘弥の娘婿となり、5代目の隠居に伴い、6代目勘弥を襲名した。 活躍期は十八世紀後半の宝暦・明和期で、勘弥代々のなかでは異色の女方。座元となってからは 立役に進出。 1774(安永3)隠居。後名は森田八十助。


7代 森田勘弥
 ?〜 1783.12.19(天明3)
 6代目勘弥の長男。初名は森田勘次郎。俳名は賀尉、千蝶、残杏。屋号は喜の字屋。 2代目森田太郎兵衛を名乗り、1774(安永3)6代目勘弥の隠居に伴い、7代目勘弥を襲名。


8代 森田勘弥
 1759(宝暦9)〜 1811.2.24(文化11)
 5代目勘弥の子。初名は森田又次郎。前名は4代目坂東又九郎。俳名はショウ花、喜幸。屋号は喜の字屋。 1783(天明3)7代目勘弥死去に伴い、8代目勘弥を襲名。立役、敵役を本領として所作事(舞踊)も得意とした。 1789〜1799(寛政1〜10)および1801(寛政12)再度にわたって森田座が休座している間も、他座の舞台に立ち続けた。 1801(享和1)息子の又吉に座元を譲り、初代坂東八十助と改名。 1808(文化5)又吉の9代目勘弥が再興した森田座の舞台を勤めて引退した。 8代目勘弥は、又吉の誕生以前、初代坂東三津五郎の子、三田八を養子にしていたが、森田家に実子が生まれたので、三田八は実家に帰った。 この人物が後の3代目坂東三津五郎であり、文化・ 文政時代を代表する立役の名優である。


9代 森田勘弥
 ?〜 1851.5.22(嘉永4)
 8代目勘弥の子。初名は森田又吉。俳名は眠舎、喜幸。屋号は喜の字屋。1801(享和1)9代目勘弥を襲名。 1808(文化5)父と共に森田座を再興したが、1815から休座。1822(文政5)改めて再興したが1年で休座。 1830(文政13)養子の三八に譲り、後名は坂東八十助となった。


10代 森田勘弥
 ?〜 1838.7.11(天保9)
 3代目坂東三津五郎の三男。初名は2代目坂東三田八。前名は坂東三八。俳名は賀尉。屋号は大和屋、喜の字屋。 1830(文政13)9代目勘弥の養子となり、10代目勘弥を襲名。1833(天保4)休座していた森田座を再興した。 この森田座には、同じ3代目三津五郎の養子である2代目簑助や初代玉三郎が出演してバックアップをした。 簑助は後の4代目坂東三津五郎であり、父に劣らぬ立役の名優であったが、中年からは中風にかかり不自由な身体で舞台を勤めていた。 玉三郎は後の初代しうかで、伝法な役を得意とした幕末期の名女方である。この時期から、森田家と坂東家は再び密接な間柄となった。 しかし、再興した森田座も、1837(天保8)には再び控え櫓による興行となり、勘弥は上方へ行ってそのまま病没した。

*折からの天保の改革で、1842(天保13)江戸三座はすべて浅草猿若町に集中移転させられることになった。 だが本来なら森田座が据わるべき場所に移ったのは河原崎座であった。


11代 守田勘弥
 1802(享和2)〜 1863.11.18(文久3)
 3代目坂東三津五郎の養子。2代目坂東蓑助。俳名は佳朝、秀朝、是好。屋号は大和屋、喜の字屋。坂東蓑助の時に森田座を助けた。 4代目坂東三津五郎を襲名。3代目坂東三津五郎の未亡人が、中絶していた勘弥の名義を4代目坂東三津五郎に継がせたいという願いを起こす。 この相続を巡って、9代目勘弥の系統の者と一時は訴訟事にもなったが、最終的には願いが叶い、4代目坂東三津五郎が、1850(嘉永3)11代目勘弥を襲名した。 1856(安政3)森田座を再興。1858〈森田座〉を〈守田座〉に変更、これに従って以後代々守田勘弥と改めた。 中風にかかり「よい三津」とあだ名された。美男で和実、実悪をかね、所作事を得意とした。


12代 守田勘弥
 1846.11.9(弘化3)〜 1897.8.21(明治30)
 守田座の帳元だった中村翫左衛門の次男。本名は寿作。前名は勘次郎。作者名は古河新作。俳名は是好。屋号は喜の字屋。 翫左衛門は、もともと4代目中村歌右衛門(2-1-13-5)の門弟であったが、マネージメントの才を買われて市村座の帳元となり、のちに守田座に引き抜かれた。 この時、自分の子を守田家の後継者とすることを条件とした。長男の延太郎が若くして没したため、1863(文久3)次男の寿作が養子となり、守田家を相続、12代目勘弥を襲名した。
 1872(M5)守田座を新富町に移し、1875劇場の機構を革新し〈新富座〉と改称した。 歌舞伎の近代化をすすめ、華やかな瓦斯灯を備えて夜間公演も可能な劇場とし、また劇場に一流の俳優を集めて興行し俳優の地位向上に大きな改革をした。 当時の演劇改良の風潮に同調した九代目市川團十郎に新しい脚本を手掛けさせるかたわら、政財界の名士や文化人、海外からの賓客を迎えて、明治前期の“新富座時代”とよばれる一時代を作った。 1879外国俳優を迎えた公演を催し、1887歌舞伎が天覧の栄に浴した時も、陰の仕掛人として活躍した。 河竹黙阿弥の門下で劇作もした。息子二男は7代目坂東三津五郎。三男が13代目勘弥を襲名。五女のきみは3代目坂東玉三郎。

*門弟に二代目坂東秀調(2-1-6)がいる。 なお、2代目坂東秀調の娘が3代目坂東秀調(1880-1935)に嫁ぎ、その三男が8代目坂東三津五郎の娘の婿養子となり、9代目坂東三津五郎を襲名した。


13代 守田勘弥
 1885.10.18(明治18)〜 1932.6.16(昭和7)
 12代目勘弥の三男。本名守田好作。前名は3代目坂東三田八。俳名は秀可、是水。屋号は喜の字屋。 1894(M27)父の借財により、新富座の権利を失った。1906新富座で13代目勘弥を襲名。和事を得意とした。 市村座・帝劇などで専ら歌舞伎俳優として活躍。古典歌舞伎ではニ枚目役で古風な味を見せながら、西欧近代劇や新しい文芸戯曲への理解力にも優れ、創作劇や翻訳物の境地をも開拓した。 1914(T3)自身の研究公演である文芸座を創立、新しい演劇運動を展開したが、鼻の奇病のため享年47歳の若さで没した。

*多磨霊園の墓所建立者である。


14代 守田勘弥
 1907.3.8(明治40)〜1975.3.28(昭和50)
 女役者3代坂東玉三郎と12代目勘弥の四女みきの子。13代目勘弥の甥。本名は好之。俳名は秀佳。屋号は喜の字屋。
 1914(T3)4代目坂東玉三郎として東京歌舞伎座で初舞台。'26(T15)3代目坂東しうかを襲名し、'32(S7)から片岡仁左衛門らと青年歌舞伎を結成して活躍。 '35(S10)14代目勘弥を襲名。歌舞伎界きっての二枚目で、切られ与三、小猿七之助、白井権八など江戸前の二枚目役に長所をみせた。 また女方から老け役まで広い芸域を持っていた。'37女優の初代水谷八重子(後に離婚)と結婚し話題を呼んだ。 新作でも優れた演技を残し、とくに真山青果の「名君行状記」の光政、「将軍江戸を去る」の慶喜は当り役。 晩年は、'61開場した国立劇場に多く出演。没するまで、数々の復活狂言に、その持てる歌舞伎の蘊蓄を遺憾なく発揮した。'66テアトロン賞、'70紫綬褒章を受賞した。

*初代水谷八重子(1905.8.1〜1979.10.1)は、本名松野八重子。勘弥との間に二代目水谷八重子(本名は水谷良重)がいる。初代水谷八重子の墓所は築地本願寺別院和田堀廟所。「水谷八重子之碑」として建つ。隣に義兄の水谷竹紫の墓石が建つ。

*5代目坂東玉三郎(本名守田親市)が養子となり守田家を相続し現在に至る。

<コンサイス日本人名事典>
<世界人名辞典>
<講談社日本人名大辞典>
<守田勘弥と守田座の歴史 石橋健一郎>


系図

墓所

*墓石正面は「守田家累代之墓」。裏面は「大正十四年八月建之 十三代目 守田勘弥」と刻む。墓所内には昔、歴代勘弥の墓誌が右側に、左側墓誌には歴代勘弥の妻、三津五郎等の名前が刻む墓誌があったが現在は撤去された。当時の墓誌より、守田(森田)勘弥 元祖〜14代、坂東三津五郎7代〜10代、3代目坂東玉三郎が同墓に眠る。

*歿年月日が人名辞典によって異なるが、墓誌にある日付を優先した。特に9代目よりも10代目が先に亡くなったことにより、誤記する人名辞典が多い。

墓誌左側 墓誌右側

※現在は墓誌はありません。



第51回 歌舞伎俳優 守田勘弥 坂東三津五郎 お墓ツアー


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