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ばんどう しゅうちょう

坂東秀調 二代目

ばんどう しゅうちょう

1848(嘉永1)〜 1901.9.29(明治34)

明治期の歌舞伎役者

埋葬場所: 2区 1種 6側(水田家)

 本名は水田由松。初名は市川米丸、前名は市川米十郎(三代目)、坂東しう調、屋号は大和屋。
 二段目力士、雪の森角蔵(のち役者となり名古屋橘座の太夫元水田角内)の末子として名古屋薬屋町に生れる。幼少の頃より西川鯉三郎に舞踊を習っていたが、1853(嘉永6)4代目市川小団次が名古屋の舞台を勤めているとき門人となる。 市川米丸と名乗り「石川五右衛門」に五郎市役で初舞台を踏む。のち父の子供芝居に勤めていたが、1867(慶応3)大坂に行き堀江の芝居に3代目市川米十郎を襲名。 それより大坂の浜芝居・宮地芝居などで修行。1868(M1)11月大阪筑後芝居「達大礎」に志のぶ役。名古屋にもどり1872(M4)3月中村座「増補千本桜」に勤める。
 1874(M6)12代目守田勘弥(1-1-6-8)の門人坂東しう調と改め東京に上り、11月守田座「音駒山守護源氏」に若女方として花園姫と菊町の二役。 1877の11月新富座「天草日誌劇新聞」に山田右衛門妻おうら役で大好評。1881名古屋にもどり古袖町芝居に市川団十郎と共に勤める。1882正月横浜港座「天一坊」に勤め、東京新富座「千本桜」「菅原」に立田など九役で大好評。 1885の2月同座「後風土記劇本読」に坂東秀調と字を改める。1888名古屋にもどり、9月末広座「四千両」に勤め、東京に上り6月新富座に勤める。 1890の3月名古屋より京都に勤め、東京に上り、5月歌舞伎座「実録忠臣蔵」に大石の妻およしと甚五郎女房おみねの二役、のち浜松・豊橋の舞台に勤め、11月名古屋末広座「近江源氏」に勤め東京に上る。 1893名古屋にもどり10月宝生座に勤め、京都に行き11月南座「実録先代萩」に政岡役、名古屋に戻り12月千歳座に勤める。1895静岡に行き、8月若竹座「菅原伝授手習鑑」に松王妻千代と奥女中三よし野の二役、東京に上り10月明治座「一谷嫩軍記」に妻相模役。 1901大阪に下り、3月角座「裏表伊達染小袖」に浅岡・累・信夫の三役、「妹背山」に定高・おみわ・お弓・火の車お早の四役。名古屋にもどり同年4月御園座「一谷」に相模役、「鳴戸」にお弓役で勤めた頃より肺結核が重くなり東京赤坂で静養、9月神奈川県国府津の加藤病院で死去した。 時代物と世話物に適し、女方としていずれの役にも熟したが、世話女房役は最も得意で無類と称された。しかし、一方で風姿・口跡がすぐれず《逆さ瓢箪》などと綽名された。
 養子(のち離縁)に坂東勝太郎(のち三代目秀調)がいる。

<歌舞伎人名事典>
<MATHU様より情報提供>


系図

*墓所は東京下谷竜泉寺に葬られたが、多磨霊園に改葬された。墓石はボース,ビハリ〔ラス・ビハリ・ボース〕(1-1-6-12)のインド式仏塔によく似ており、正面に水田家と刻む。 墓所内にある水鉢などの刻みに当時の歌舞伎役者から贈与されたと思うわれる刻みが残る。


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