本名は水田由松。初名は市川米丸、前名は市川米十郎(三代目)、坂東しう調、屋号は大和屋。
二段目力士、雪の森角蔵(のち役者となり名古屋橘座の太夫元水田角内)の末子として名古屋薬屋町に生れる。幼少の頃より西川鯉三郎に舞踊を習っていたが、1853(嘉永6)4代目市川小団次が名古屋の舞台を勤めているとき門人となる。
市川米丸と名乗り「石川五右衛門」に五郎市役で初舞台を踏む。のち父の子供芝居に勤めていたが、1867(慶応3)大坂に行き堀江の芝居に3代目市川米十郎を襲名。
それより大坂の浜芝居・宮地芝居などで修行。1868(M1)11月大阪筑後芝居「達大礎」に志のぶ役。名古屋にもどり1872(M4)3月中村座「増補千本桜」に勤める。
1874(M6)12代目守田勘弥(1-1-6-8)の門人坂東しう調と改め東京に上り、11月守田座「音駒山守護源氏」に若女方として花園姫と菊町の二役。
1877の11月新富座「天草日誌劇新聞」に山田右衛門妻おうら役で大好評。1881名古屋にもどり古袖町芝居に市川団十郎と共に勤める。1882正月横浜港座「天一坊」に勤め、東京新富座「千本桜」「菅原」に立田など九役で大好評。
1885の2月同座「後風土記劇本読」に坂東秀調と字を改める。1888名古屋にもどり、9月末広座「四千両」に勤め、東京に上り6月新富座に勤める。
1890の3月名古屋より京都に勤め、東京に上り、5月歌舞伎座「実録忠臣蔵」に大石の妻およしと甚五郎女房おみねの二役、のち浜松・豊橋の舞台に勤め、11月名古屋末広座「近江源氏」に勤め東京に上る。
1893名古屋にもどり10月宝生座に勤め、京都に行き11月南座「実録先代萩」に政岡役、名古屋に戻り12月千歳座に勤める。1895静岡に行き、8月若竹座「菅原伝授手習鑑」に松王妻千代と奥女中三よし野の二役、東京に上り10月明治座「一谷嫩軍記」に妻相模役。
1901大阪に下り、3月角座「裏表伊達染小袖」に浅岡・累・信夫の三役、「妹背山」に定高・おみわ・お弓・火の車お早の四役。名古屋にもどり同年4月御園座「一谷」に相模役、「鳴戸」にお弓役で勤めた頃より肺結核が重くなり東京赤坂で静養、9月神奈川県国府津の加藤病院で死去した。
時代物と世話物に適し、女方としていずれの役にも熟したが、世話女房役は最も得意で無類と称された。しかし、一方で風姿・口跡がすぐれず《逆さ瓢箪》などと綽名された。
養子(のち離縁)に坂東勝太郎(のち三代目秀調)がいる。