モスクワとウラル山脈のちょうど中間にあるカザン市郊外のサラアシ村出身。
トルコ系タタール人。地主のハジネジムッディン・ムヒト(同墓 HAJINEJMUDDIN MUHIT 1849-1944)の子。
ロシア革命(十月革命)後のロシア内戦の混乱時に、家にロシア兵が踏み込み、妊娠中の母親の腹をライフル銃の柄で叩いたことが原因で早産となり、双子の一人は没し、テミムダル・モヒトは一命をとり止め誕生した。
混乱時であったため正式な生年月日はわからない。後に母親がカザン市の南のボルガ河と合流するカマ河が冬の間の凍結が春となり溶けて流れていた時に産んだ記憶から、5月頃と推察し、5月の真ん中を取って、誕生日を5月15日としたという。
内戦の余波が地元にまで及び、地主であったが隣り村に一家は避難することを決意。
しかし、すぐに隣り村にまで蹂躙されたため、馬車で間道を通り東へと難を逃れた。
シベリア鉄道を乗り東へ逃げていた途上、母親がチフスに冒されて、両親と四人の子供は凍てつくタイガの森に放りだされた。
危機を乗り越えながら2年がかりでハルビンに到着し、一家はその土地で11年間暮らす。
1922(S7)モヒトが13歳のときに一家で日本へ来日。当時、日本に移り住んだタタール難民は約六百人。
そのうち二百人ほどが東京に定住した。タタール難民のリーダーがムハンマド・ガブドゥルハイ・クルバンガリーであり、彼は亡命者として来日していた。
クルバンガリーらタタール人たちの、物心両面から支援したのは右翼玄洋社の頭山満や後の宰相の犬養毅らアジア主義者の面々であった。
軍部の後ろ盾を得、宰相から財界人、右翼まで大物人士の間を回り、学校建設、タタール語誌の雑誌発行、モスク建設費用の引き出し等で活躍し、東京回教寺院(現在の東京ジャーミイ)の導師初代イマームである('38開堂式直前にスパイ容疑で逮捕され、満州大連に追放された)。
青年時代にクルバンガリーの薫陶を受けたモヒトは当時の日本政府に対して「彼らはぼくらを利用したけど、ぼくらも彼らを利用した。
クルバンガリー先生はそれが上手だった」と回想している。クルバンガリー追放後は、アブデュルレシト・イブラヒム(外人墓地区)が2代目イマーム(実質初代)となる。
モヒトは東京在住のトルコ人と結婚し、東京湯島で洋裁店を経営していた姉夫婦を頼った。当時のタタール難民の日本でできる商売は、洋服商や金物商、そして多くは問屋から仕入れたラシャの行商に従事していた。
'50朝鮮戦争にトルコの兵隊も国連軍として参加しており、戦地で負傷した兵士は日本に護送されていた。
在京タタール人たちは傷病兵を見舞い、異国で心細い思いをしていたトルコ兵への気遣いを行っていたことが、トルコ大使館の関係者が感激し、在京タタール人たちに「何かお返しをしたい」と申し出た。
在京タタール人は帝政ロシアの滅亡により国籍を失っており、ソ連の国籍を取る者もいたが、多くは無国籍のままであった。
そこで、「トルコ国籍をいただきたい」と熱望したのである。'53トルコ政府が在京タタール人たちに対して、トルコ国籍を認める。
これにより、在京タタール難民の多くは日本を離れるが、モヒトは在住し行商を続けた。
東京に残ったタタール人たちの中には、貿易商や医者になるものも現れ、東京回教寺院の導師イマームを務めたアイナン・サファ(外-1-5の2)や、その息子のロイ・ジェームス(外-1-別中)はタレントとして活躍した。
洋服の行商で食べていた人々は社会が安定するにつれ、仕事は先細りとなったが、多くの在京タタール人のアルバイトとして、映画やドラマ出演などがあった。
著名なところでは、オスマン・ユセフや、弟でプロレスラーでもあったユセフ・トルコなどがいる。
戦前からいる古い在京タタール人は今、その子孫も含めて六十人ほどで、日本人とのハーフが多いという。
最近では、Jリーグの大分トリニータに在籍していた北川アリフェイヤス選手などが有名。
モヒトは来日後70年間在京タタール人として滞在し、行商を経て、晩年は長老として在京タタール人たちを支えた。享年87歳。
【多磨霊園の外人墓地区とトルコ】
外人墓地区は大正十五年四月に日本で死亡した外国人を埋葬する専用の墓地として造成された。面積は5134平方メートルある。
ざっくりであるが、外人墓地入口門を向かって、左端と左側奥のほとんどがトルコ系の墓地。
手前左側がロシア系や欧米系、手前右側も欧米系、右側中ほどから右端にかけてのほとんどが中国・韓国系の墓地となっている。
ただし、トルコ系の墓域の中に中国の方の墓があったり、中国系の墓域の中に欧米系の墓があったりと一概にカテゴリ分けはできない。
上記のモヒト文章内でも触れたが、朝鮮戦争とトルコ人は多磨霊園にも逸話がある。
国連軍として参加したトルコ兵13名の遺体を多磨霊園外人墓地区内に一時埋葬をした歴史がある。
朝鮮戦争は昭和二十五年であるが、一時埋葬したトルコ兵の遺体は、昭和三十六年十月に改葬され、祖国トルコへ帰っていった。
外人墓地区には在京タタール人の両親、兄弟のほとんどが眠っている。
先で紹介をしたイマームを務めたアブデュルレシト・イブラヒムやアイナン・サファ、サファの息子でタレントのロイ・ジェームス、日本人のイスラム教指導者であるサーディク今泉。
クロード・ユセフの「僕の夢」碑は一見の価値がある心打つ内容である。