ロシア・シベリアのトボリスク県タラ郡出身。ブハラ系タタール人ウラマー。
1879(M12)メッカ、メディナに留学し、その後、オスマン帝国の首都イスタンブルに渡った。
1885ロシアに帰国し、故郷で教師を務め、1892オレンブルク・ムスリム宗務局のカーディー職に任命されたが、1894保守的な風潮に嫌気が差し辞任。
オスマン帝国のイスタンブルに移住し、ロシア帝政を批判する論説活動を展開。
1905ロシア第1革命後、ロシアに戻り、首都ペテルブルグにてタタール語紙「ウルフェト」を刊行、ロシアのムスリム住民の政治参加を訴えた。
また、ロシア・ムスリム連盟を設立し中心的役割を果すが、'06政府が非ロシア人政治活動の取り締まりを強化したため、国外脱出をした。
'07より中央アジアのブラハ、サマルカンド、セミレチエ、シベリア、モンゴル、満州、日本、韓国、中国、シンガポール、インドネシア、インド、ヒジャーズを巡る大旅行を行った。
これは『イスラームの世界』の著書として紹介された。日本には明治末期('09.2-6)に約半年間滞在し、伊藤博文、大隈重信ら要人との会見、学校等での講演、イスラームの紹介などを行った。
イブラヒムは汎イスラーム主義宣伝や反ロシア帝政運動に利用するために、日本の右翼や陸軍関係者に接近したが、日本もアジア進出を目指す上でロシアからの政治亡命者のイブラヒムに関心を持ち利用しようとした。
亜細亜主義団体亜細亜義会設立には、頭山満や犬養毅らと共に名を連ねた。この日本での体験の詳細な見聞記述はイスラームの世界での日本観に大きな影響を与えたといわれる。
旅行の執着地のイスタンブルを活動の拠点とする。その後は雑誌等に汎イスラーム主義的論説を投稿。'12オスマン国籍取得。
イタリア‐トルコ戦争、バルカン戦争に従軍、第一次世界大戦中には、欧州で反ロシア宣伝活動を行い、ベルリンでドイツ軍の捕虜となったロシア兵の中からムスリムを募集しアジア大隊を編成し組織、メソポタミア戦線にてイギリス軍と戦った。
'17ロシア革命によりロシア帝政が打倒されると、すぐさまロシアへ帰国。
当初はソビエト政権との連携を図ったが、諦め、トルコのコンヤに移る。共和政下のトルコでは冷遇されたが、'33日本からの招聘を受けて再訪日し、イスラームの普及活動に尽力。
'38東京回教寺院(現在の東京ジャーミイ)設立の際に、先に日本で活動していたリーダー的存在であるクルバンガリーが直前で国外追放となったため、イブラヒムが2代目イマーム(実質初代)となった(〜'43)。
その後も、タタール雑誌「新日本通報」を発行するなど、文筆活動を続けた。傍ら、本郷の住居にてアラブ語教室も開き、言語学者・イスラーム学者となる井筒俊彦らも習いにきていた。東京で死去。