ウラル山脈の西にある都市ペルミ出身。カザン・タタール人。家は宗教家であったが、ロシア革命の際に反革命軍に投じて満州に落ちのびた。'26(T15)来日し、日本に在住。
住まいは上野御徒町の長屋。タタール難民の多くは渋谷を拠点としていたが、サファは下町を愛したという。また浪花節が好きで、『浪花節のうなり声はコーランの朗唱と一緒だ』と言っていたという逸話がある。
仕事は洋服地の行商を始める。行商先は埼玉、千葉、茨城の三つの県境が接する農村地帯。東武鉄道日光線で埼玉県の幸手まで行き、駅前に預けていた自転車の大きな荷台に風呂敷包みを二つのせて、ペダルをこいで集落を回った。
'37(S12)頃から自宅の洋服の仕立ても始めた。なじみの商人宿も有り行商は欠かさなかった。戦後も行商を続け、商品は上野アメ横で仕入れた進駐軍払い下げのシャツやズボン、チョコレート、干しぶどうに変わったが、還暦を迎えるまで現役で活動した。
行商人の顔を持つ一方で、クルバンガリーが在京タタール人のイマームとして活躍していたとき、彼の下で「ムアジン」という補佐役を務め毎週金曜日の礼拝前にモスクの尖塔に登り、「アッラーホ、アクバル(アッラーは偉大なり)」と大声で叫んで祈りへ誘う役目を務めた。
その後もアブデュルレシト・イブラヒム(外人墓地区)のサポートや、テミムダル・モヒト(外-1-別後)ら若い世代への後進の指導を行った。また、サーディグ今泉(外-1-別中)が発足した日本ムスリム協会との連携など尽力。
'69〜'79東京回教寺院(現在の東京ジャーミイ)の第5代目イマーム(導師)となる。サファの口癖は「日本人は、他人の国からきた外国人を住まわせてくれて良くしてくれた。おかげさまでなあ」。享年85歳。
なお、子にタレントして活躍したロイ・ジェームス(外-1-別中)がいる。