兵庫県出身。祖父は建設事業者で日本三大疏水(那須疏水・安積疏水・琵琶湖疏水)の父と称された南一郞平。父は実業家の南新吾、恵美子(共に同墓)の二男。兄の南英一(同墓)は地球化学者。母方伯父に憲法学者の美濃部達吉(25-1-24-2)。経済学者・東京都知事の美濃部亮吉(25-1-24-2)は従兄弟。
東京帝国大学経済学部卒業。経済学者の大内兵衛(6-1-11-11)の門下。法政大学経済学部社会学科は学部長の松本潤一郎(24-1-47)教授が務めていたが、1935(S10)新たに社会政策学科が設置されるにあたり、南謹二が教授に就任した。
法政大学教授会の労農派に属していたことにより、南謹二、美濃部亮吉、阿部勇、笠川金作の4名は人民戦線に巻き込まれることになる。
'37.12 コミンテルンの反ファシズム統一戦線の呼びかけに呼応して日本で人民戦線の結成を企てたとして、労農派系の政治家や運動家、大学教授・学者グループが一斉検挙された事件「人民戦線事件」が起こる。近衛内閣が行った左翼弾圧事件である。二か月後、'38.2.1 大内兵衛がリーダーとして人民戦線教授グループも第二次人民戦線事件で検挙された。これに連座し法政大学労農派教授の南謹二、美濃部亮吉、阿部勇、笠川金作の4名が逮捕された。これに伴い、法政大学教授を退任させられる。法政大学経済学部社会政策学科の教授の後任は下条康磨が就任した。
しかし、この人民戦線事件で治安維持法によって強引に検挙された人たちは、教授グループ事件を中心に次々と無罪判決が出た。'42.9.28 南謹二は第1審判決で無罪となる。第2審では検挙された教授グループは全員無罪が確定した。だが、南謹二は第2審の審理中に留置されていた荏原署の待遇が悪かったため発病し病死した。享年39歳。
H.メンデルスハウゼン著『戦争の経済学』(1942.11)を翻訳し刊行した。カール・マルクス著、カール・カウツキー編『剰余価値学説史』の4冊目は大内兵衛と共訳で翻訳は完成していたが改造社からは刊行できなかったまま訳稿は戦火に焼けた。また生前『道徳感情論』の翻訳を企てていたが着手に至らなかったといわれる。
*墓所には4基の墓石が建つ。正面右に和型「南新吾之墓」、裏面に生没年月日が刻む。正面左に和型「南恵美子之墓」、裏面「南新吾妻 明治十年四月九日生 / 昭和二年二月廿六日死」と刻む。墓所左側に和型「南謹二之墓」、右面「昭和十八年十二月二十二日死」。墓所右側に洋型十字架を刻み「南家之墓」、右側に「昭和五十二年十一月 南尚夫 建之」。裏面が墓誌となっている。墓誌は南英一から刻みが始まり「アルベルト」とある。英一の妻は梅子(エリザベト:H5.4.15永眠)、南尚夫(英一の長男:ブーベルト:H22.2.18永眠)、尚夫の妻は孝子(マリアアンナ:H24.9.11永眠)。
*妻の すみ の妹は女性史研究のパイオニア・名古屋経済大学名誉教授の水田珠枝。アダム・スミス研究の第一人者で名古屋大学名誉教授の水田洋は義弟。