東京銀座出身。3歳で石版印刷業を営む父を失い、母は再婚したがうまくいかず事業は没落。そのため少年期は親戚の家を転々とした。芝居好きの祖母や学問に熱心な伯父のおかげで、早稲田大学英文科に入学し、英文学に限らず広くヨーロッパの諸文学を学んだ。またこの頃、島村抱月に強い影響を受け、抱月の下で「文芸百科全書」編集に従事。坪内逍遥にも師事。
'07(M40)早稲田大学卒業後、編集者として早稲田文学社、読売新聞を経て、'10(M43)坪内逍遥の推薦で冨山房に入社。雑誌「新日本」の編集に当たるなど以後、同社に軸足を置いて幅広く展開していくことになる。一方で、坪内逍遥の「文芸協会」に参加し、評論や翻訳劇脚本家としても活動。'11評論『菊五郎と吉右衛門と』で劇壇に認められ、演劇評論家としての地位を固めた。'12中谷徳太郎らと演劇雑誌「シバヰ」を創刊して自らも曲を発表した。'13〜'15母校の早稲田大学講師となり近代劇を講じ、島村抱月主宰の芸術座に加わるなど、編集の傍らで、演劇界にも積極的にかかわった。なお、芸術座で舞台主任を務めていたのが後に洋画家になる小林徳三郎(20-1-25)、芸術座で作曲を担当し「カチューシャの唄」をヒットさせた中山晋平(21-1-6-3)、松井須磨子の妹弟子・女優の明石澄子(20-1-21)らが所属していた。
しかし、'18.11.5島村抱月がスペイン風邪で急逝、'19.1.5抱月の後を追って看板女優であった松井須磨子が自殺したため、芸術座は解散した。抱月と須磨子の死の間の二か月、楠山は座内で須磨子との関係を疑われ査問を受ける事態になっていた。背景には須磨子と脚本部との亀裂や、抱月没後に楠山を頼った須磨子の挙動から生じた全くの誤解であった。実際は楠山は坪内逍遥に抱月弔問を要請し、須磨子を引き合わせるなど、事態の緩衝に努めていたという。この騒動以降、楠山は演劇界での活動を控え距離を置き、'22演劇界の全てから身を引いた。
この間、辞典編集や演劇評論活動に加え、児童文学への関りを持つようになり、'15(T4)「規範家庭文庫」全24巻の編集へ参画。同年、杉谷代水の遺稿となった翻訳『アラビアンナイト・上下』、中島孤島の翻訳『グリム御伽噺』の原案整理を担当した。'16自身が『新譚イソップ物語』を出した。同年、小川未明らと童話作家協会創立につとめ、後に児童文芸雑誌「赤い鳥」などに古典や昔話の再話を発表した。また「童話」「金の船」(金の星)など大正期の代表的な童話雑誌に多くの作品を発表した。
'19『世界童話宝玉集』、'21『日本童話宝玉集」の完成度が高く、これまでの「お伽噺」という定義によらず、「童話」を日本で初めて集成したものと広告された。'22演劇界から完全に身を引いたこともあり、藤原文芸研究に打ち込むため京都に移住する。だが、翌年に起きた関東大震災で窮地の冨山房社長の要請を受け東京に戻り、'24『日本家庭大百科字彙」責任者を任された('31完成)。同年、アンデルセン童話を独英米の底本から訳し、初めて童話集として出版。'25現代絵本の先駆けとなる「画とお話の本」シリーズを刊行。'31エクトル・マロー作『少年ルミと母親』を刊行。同時並行で『国民百科大辞典』の編集にも携わる。大正時代に入り第一次世界大戦を機に、日本国内に改めて国際化・文化生活向上の風潮が盛り上がり、子供向けの文芸興隆の波が高まりに乗るように、児童文学者としての優れた才能を示した。
'37(S12)東京朝日新聞の各座月評を引き受ける形で、距離を置いていた演劇評論を復活させた。'38本人監修の独語底本から再度アンデルセン童話の翻訳に挑戦し、まったくの新訳を出版。戦時中には反戦児童文学『デブと針金』を出す。
戦後、'49より童話の集大成『世界おとぎ文庫』に着手。『新訳アンデルセン童話集』はデンマーク原語から三度文章を改め翻訳を試みた。ガンを患い、病床に就いてからも執筆活動を続けていたが両計画とも中途にして逝去。享年66歳。
演劇界から距離を置いた31歳から、児童文学に携わるようになり、多くの児童文学作品を発表、外国児童文芸に日本受容、日本の伝説や昔話の再話など、巌谷小波(12-1-2-18)と並び称され日本児童文芸の発展に大きく貢献した。「語ること」「魅せること」「まとめること」を意識した創造的編集者であった。