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あかし すみこ

明石澄子

あかし すみこ

1892.3.6(明治25)〜 1988.5.26(昭和63)

大正・昭和期の新劇女優

埋葬場所: 20区 1種 21側(宮本家)

 東京日本橋室町出身。本名は宮本志ん。1912(M45)東京音楽学校声楽科を卒業し、文芸協会入会。坪内逍遥と島村抱月を師事する。
 '13.7(T2)文芸協会分裂のため、島村抱月・松井須磨子の「芸術座」に加わる。島村抱月が須磨子と対照的に故事の「須磨・明石」から「明石澄子」と名付けた。'14.3 トルストイ作「復活」を帝劇にて初舞台。カチューシャ(松井須磨子)の妹、フィオードシアを演じた。以降、松井須磨子の妹弟子として新劇女優として活動。なお「復活」の劇中で松井須磨子が演劇をしながら歌を歌う初の試み「カチューシャの唄」が話題となりレコードが大ヒットする。この曲を作曲したのは芸術座所属の作曲家だった中山晋平(21-1-6-3)。
 '15.4ツルゲーネフ作「その前夜」でカーチャ役を演じる。同.11 トルストイ作「アンナ・カレーニナ」で家庭教師ローラン女史とミカエラ伯爵夫人の二役を演じた。'16.4 芸術座の舞台完成につき、こけら落とし、トルストイ作「闇の力」にアクリーナ役で出演。同年、中村吉蔵 作「飯」でお松 役で出演。'17新富座にて「朝顔日記」で腰元おやま役、「寝台車」で芸者あだ助役で沢田正二朗の新国劇に出演。'18.11.5「みどりの朝」出演中に島村抱月がスペイン風邪で急逝。'19.1.5 抱月の死を追った松井須磨子の自殺前夜、有楽座に於て「カメルン」でミカエラ役で須磨子と共演していた。同年、芸術座解散。澄子も27歳で結婚し、翌年、長女誕生と同時に一時舞台生活を退いた。
 '22(T11)30歳で松竹の日活で映画に出演して復帰。その後は、バーや銀座でカフェを経営をしながら、'31(S6)東宝映画に出演するなど活動をしていたが、'38女優生活から引退。この時46歳。
 '45終戦後まもなく高円寺にて洋裁学校経営をはじめとし、各種の商売に成功し、土地買占めで財をなす。'53再び演劇にあこがれ「創造劇場」を支援。'57(S32)65歳で生活の落着に伴い劇場、演劇学校を含む総合的演劇センター設立の志を抱き、その準備のため、早稲田大学の聴講生を受験し、早稲田大学一文演劇科2年に合格する。その後、国文学、心理学、社会科学を専攻し、30年間早稲田大学に在籍した。
 '79.7脳血栓で倒れるが闘病生活にもめげず、'80.4(S55)88歳で私財1億数千万円をかけた念願の芸能スタジオ「明石スタジオ」を東京・高円寺に開設(キャパシティは通常120人・最高記録は284人。広さは間口8.4m×奥行き11.4m。天井高4.5m。天井が高く楽屋が広いのが特徴の黄色い小劇場。2018閉館)。
 晩年はもっぱら心理劇に情熱を注ぎ、お茶の水女子大学教授の松村康平先生の指導のもとに心理劇(サイコ・ドラマ)の演出にあたった。享年96歳。

<芸能人物事典>
<墓誌碑の明石澄子略歴より>


墓所 碑 墓所 レリーフ

*墓石は和型「宮本家累代之墓」。裏面「昭和二十一年 宮本志ん 建之」。左側に二基墓誌が建ち、右側の奥と手前に明石澄子の墓誌碑が建つ。奥側の墓誌碑には「老いの身に舞台の夢をかきたてて ふとくちずさむカチューシャの唄 新劇女優 明石澄子」 とあり、「智徳院明壽心鏡大姉 俗名 宮本志ん」と没年月日、享年が刻む。また「坪内逍遥・島村抱月に師事し、松井須磨子らと舞台で活躍 六十五歳より早稲田大学に学ぶ」と刻む。手前は早稲田大学をバックにした明石澄子のレリーフ、明石澄子略歴」が刻む。

*「芸術座」で舞台主任を務めていたのが後に洋画家になる小林徳三郎(20-1-25)、作曲を担当者が中山晋平(21-1-6-3)、演劇研究家として深く関与していたのが楠山正雄(3-1-32-17)は多磨霊園に眠る。なお、島村抱月の墓は雑司ヶ谷霊園。松井須磨子は抱月の墓に葬るようにと遺書に書いたが叶わず、長野県松代町の生家の墓に葬られたが、後に雑司ヶ谷霊園に近い多聞院にも分骨され、境内には抱月と須磨子の「芸術比翼塚」も建立されてい



第171回 松井須磨子の妹弟子 新劇女優 明石澄子 お墓ツアー


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