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こばやし とくさぶろう

小林徳三郎

こばやし とくさぶろう

1884.1.8(明治17)〜 1949.4.18(昭和24)

大正・昭和期の洋画家

埋葬場所: 20区 1種 25側

 広島県福山出身。旧姓は藤井。幼名は嘉太郎。尾道の商家「島屋」の当主で後母方の伯父の小林徳三郎の養子となり名を襲名した。号は天徳堂。生母が東京で再婚したため幼くして引き取られる形で上京し、正則中学校で学ぶ。
 1909(M42)東京美術学校西洋画本科卒業。'12 一時、大阪帝国新聞社に入社したが、すぐに辞して上京し、同年末、岸田劉生(12-1-11-11)らとフュウザン会の設立に参加し、第1回展は油彩画や木版画、第2回展はパステル画など出展した。展覧会に足を運んだ芥川龍之介が最も人目をひいたのは小林徳三郎の『江川一座』(パステル)だったという感想が書かれた書簡が残っている。注目を集めたフュウザン会であったが二回の展覧会で解散。
 '13 文芸協会を退会した島村抱月が、松井須磨子を中心俳優とした劇団「芸術座」を立ち上げに参加し、舞台装飾主任となる。なお芸術座で演劇研究家として深く関与した楠山正雄(3-1-32-17)、作曲を担当し「カチューシャの唄」をヒットさせた中山晋平(21-1-6-3)、松井須磨子の妹弟子・女優の明石澄子(20-1-21)らも所属していた。小劇場「芸術倶楽部」も建設され芸術的上映に力を尽くし、舞台衣装のデザインまで担当したという。同時期に島村抱月による翻訳書の装丁も担当した。'17 小林は退団。なお、翌年に島村抱月はスペイン風邪で急死し、'19 須磨子が後追い自殺したことで芸術座は解散している。
 東京外国語学校フランス語専科を卒業。第5回院展に『風景』を出品。翌年は『鰯』を出品。院展は洋画部門解体に伴い第7回展が最後となる。
 '23 春陽会第1回展から参加し、その後毎回出品した。'26 会員に推される。'24〜'33 頌栄高等女学校の美術教育を行う。'28(S3)資生堂ギャラリーにて個人展覧会を開く。なお、昭和の初めころより、小林徳三郎が描いた原色刷り絵葉書が人気を博し、一千枚以上を売りつくしたこともあった。
 '33(S8)結核を患い千葉の館山病院にて療養生活を送りながらも制作した。'36 病気快癒で帰京。
 '37 新文展無鑑査となる。'39頃から小田原の江の浦に滞在し、江の浦や河口湖を描き多くの作品を生んだ。'45 戦災のため自宅焼失したため箱根強羅に疎開。'49 疎開生活を切り上げ帰京し、同.4.10から開催された春陽会第26回展に参加したが、心臓麻痺のため自宅で急逝。享年65歳。
 主な作品に『子供』(1927)、『金魚を見る子供』(1928)、『小卓子』(1931)、『へちま』(1932)、『窓辺の子供』(1936)、『河口湖夕照』(1940)、『江の浦残照』(1941)、『郊外落日』(1949)などがある。没翌年の春陽会第27回展において代表作30点による小林徳三郎遺作室特設が催された。

<講談社日本人名大辞典>
<日本美術年鑑>
<平凡社『日本人名大事典 現代』>
<小林徳三郎‐障害と芸術に関する研究ノート−平泉千枝>


墓所

*墓石正面「小林徳三郎墓」、裏面「画家 萬春院大光天徳居士」と刻む。左右に墓誌が建つ。右側の墓誌に小林徳三郎が刻み、戒名は萬春院大光天徳居士。妻は政子(S48.5.6・78才)。なお、同墓には右の墓誌に長男の小林閑之助(M44-S13.11.13・27才)、次男の小林輝之助(T6-H21.8.18)、輝之助の妻のアヤ子(H30.1.4歿・95才)、左の墓誌に三男の小林徳弥(T25-H16.12.12・78才)、徳弥の妻の多キ子(R4.5.27歿・90才:キ=七が3つの漢字)。

*二男の小林輝之助は東京商科大学(一橋大学)卒業後、鹿島組(鹿島建設)に勤務。現在、一橋大学「小林輝之助記念奨学金」制度があり名が残る。また父から受け継いだコレクションを広島県立美術館とふくやま美術館に寄贈している。また三男の小林徳弥は『備後尾道小林一族の譜』を出版している。

*多くの人名事典では小林徳三郎の没年月日を四月十九日としているが、墓誌には「四月十八日歿」と刻むので、ここでは墓誌を優先する。


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