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いわや さざなみ

巌谷小波

いわや さざなみ

1870.7.4(明治3.6.6)〜 1933.9.5(昭和8)

明治・大正・昭和期の児童文学者

埋葬場所: 12区 1種 2側 18番

 東京府麹町平河(千代田区)出身。代々は近江水口藩医で姓は正しくは「巖谷」と記す。父の巌谷一六(修)は書家、明治新政府の書記官僚で貴族院議員を務めた。兄の巌谷立太郎は鉱山学者、弁二郎は日下部鳴鶴の養子となり土木学会会長を務む。弟の春生は号を獨嘯とし滋賀県の巌谷家清家を継ぐ。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人(さざなみ さんじん)、楽天居、大江小波等がある。
 10歳の時に兄の立太郎がドイツからヨーロッパの昔話や童話が収録された「オットーのメルヘン集」のドイツ語の本を贈ってきてくれたことがきっかけで、ドイツ語の勉強ではなく文学に目覚めることになる。独逸学協会学校へ入学するが医者の道へ進ませられることを嫌い、文学を志し進学を拒否して、1887(M20)尾崎紅葉らの硯友社同人となり、機関紙「我楽多文庫」に、小説『初紅葉』『妹背貝』『秋の蝶』『五月鯉』など書き新進作家として知られた。
 1891博文館の「少年文学叢書」第1編として出版した児童文学の処女作『こがね丸』を執筆。これは明治以後の創作童話のはじめで近代日本児童文学史を開く作品となった。雑誌「少年世界」「少女世界」「幼年世界」「幼年画報」の編集長として童話やおとぎ話を書き、児童文学の道を開いた。
 個人による日本初児童叢書である『日本昔噺』(二十四編)、『日本お伽噺』(二十四編)、『世界お伽噺』(一〇〇編)などのシリーズを刊行した。その膨大な作品の中でも最も有名な『桃太郎』『金太郎』『浦島太郎』『花咲爺』などの民話や英雄譚の多くは彼の手によって再生され、幼い読者の手に届けられた。これらの活動から近代児童文学の生みの親と称される。
 なお、再生執筆する際に現代に馴染みあるように創作もしている。例えば室町時代に書かれた作者不詳の「御伽草子」からの言い伝え『浦島太郎』は、浦島太郎が釣り上げた亀を海に帰しただけの記述のところを、浦島太郎は子どもにいじめられていた亀を助けたというように創作している。その後の竜宮城の乙姫様も小波の創作である。
 '03日本に児童演劇の樹立を目指し、ドイツの少年小説を翻案してお伽芝居の脚本『春若丸』を発表。続いて川上音二郎と組んで、自作『狐と裁判』『浮かれ胡弓』でお伽芝居を上演した。
 '28(S2)から二年かけて代表的なものをまとめた『小波お伽全集』(全12巻)や自伝『我が五十年』(1920)がある。また、アンデルセンやグリム童話を日本で初めて紹介した人物でもあり、日本のアンデルセンと呼ばれることも有る。西洋人からは「日本のグリム」と擬せられた。
 作詞活動も並行して行い、文部省唱歌『ふじの山』、『一寸法師』など著名な歌の作詞を手掛けるほか、各地の学校の高歌の作詞も手掛けている。俳人でもあり自ら開拓したお伽噺の世界を俳画の世界に融合させ、「お伽俳画」という独創的な世界を創り上げた。 晩年はお伽噺の口演や戯曲化も試み、全国を行脚して児童劇を開拓し普及に努めた。'33.6 広島県西条で腸閉塞を起こして手術を受け、同.8 帰京。日本赤十字病院に入院するが、衰弱はげしく、直腸がんのため同.9.5 還らぬ人となった。享年63歳。辞世は「極楽の乗物や是桐一葉」。

<コンサイス日本人名事典>
<20世紀日本人名事典>
<日本芸能人名辞典>
<最新重要人名辞典など>


*墓石は十字架「小波巌谷季雄一族墓」と刻む。左側に墓誌があり「巖谷季雄」と本名で刻む。行年は64才と刻む。妻は勇(ゆう)。勇は滋賀県出身で山村徳次郎の妹。

*同墓には小波・勇の長男で劇作家・演出家の巌谷槇一(墓誌には本名:巖谷三一)、二男で児童文学研究者の巌谷栄二(墓誌には巖谷榮二)、三男で映画監督・演出家・日本ユマニテ協会会長の巌谷平三、四男で文芸評論家の巌谷大四も眠る。なお長女の三四は泉源吉に嫁ぎ、二女の三八は橋口正哉(共に8-1-3)に嫁ぎ、三女のきの江は最高裁判所長官の藤林益三に嫁いだ。孫に栄二の長男の巌谷國士は仏文学者、平三の長男の巌谷鷲郎は映画監督、大四の三男の巌谷純介は装丁家、三八の次男の橋口稔(8-1-3)は英文学者らがいる。

*巌谷小波(季雄)は人名事典によって、3男もしくは4男と記されているが、正式には小波にとっての実母の八重は父の二番目の後妻であるため、父にとっては6番目の子、母にとっては4番目の子が正しい。身籠っていた母が父に呼ばれ滋賀県から上京し、東京で小波を生んだ。よって生まれた時の本籍は滋賀県。なお母は小波を生んだその年の10月1日に肺炎で亡くなっている。

*師であった尾崎紅葉の『金色夜叉』は小波の青春時代の逸話を元に書かれた物語であるらしいのだが、間貫一ならぬ巌谷小波の遺言は〈財産とてはなし。ただ名のみを残すべし〉であったということだ。

*甲賀市の水口歴史民俗資料館の中に「巖谷一六・小波記念室」がある。「巌谷小波の童話碑」茂林寺(群馬県館林市)など全国に巌谷小波の句碑などが建つ。



第125回 童話やおとぎ話を身近にしてくれた人 巌谷小波 お墓ツアー
日本児童文学の先駆者


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