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いわや しんいち

巌谷槇一

いわや しんいち

1900.9.12(明治33)〜 1975.10.6(昭和50)

昭和期の劇作家、演出家

埋葬場所: 12区 1種 2側 18番

 東京都出身。祖父は書家の巌谷一六。童話作家の巌谷小波・勇(共に同墓)の長男。本名は三一。姓は正しくは「巖谷」と記す。弟に児童文学研究者の巌谷栄二、映画監督・演出家の巌谷平三、文芸評論家の巌谷大四(全員同墓)がいる。
 1923(T12)東京外国語学校仏語科卒業、のち東京帝大国文科に入ったが、戯曲創作熱に駆られて中退。翌年松竹合名社に入り、'25新設の歌舞伎座の舞台監事室で川尻清次の助手として舞台監督の業務に携わった。劇作にも専心し、同年4月『大地は微笑む』を最初として多くの脚色物を手がけたが、'37(S12)10月明治座の『残菊物語』の御色が好評を得て、これが終生の代表作となった。作品は百十余。また'31から真山青果に師事してその演出に携わり、'41からの前進座による『元禄忠臣蔵』連続上演にはそのすベての演出を担当した。'54歌舞伎座監事室長となった。

<日本人名現代103頁>
<五輪塔様より情報提供>


*墓石は十字架「小波巌谷季雄一族墓」と刻む。左側に墓誌があり父の小波の本名「巖谷季雄」から刻む。なお巌谷の漢字は正しくは「巖谷」。

*同墓には小波・勇の長男で劇作家・演出家の巌谷槇一(墓誌には本名:巖谷三一)、二男で児童文学研究者の巌谷栄二(墓誌には巖谷榮二)、三男で映画監督・演出家・日本ユマニテ協会会長の巌谷平三、四男で文芸評論家の巌谷大四も眠る。なお長女の三四は泉源吉に嫁ぎ、二女の三八は橋口正哉(共に8-1-3)に嫁ぎ、三女のきの江は最高裁判所長官の藤林益三に嫁いだ。甥に栄二の長男の巌谷國士は仏文学者、平三の長男の巌谷鷲郎は映画監督、大四の三男の巌谷純介は装丁家、三八の次男の橋口稔(8-1-3)は英文学者らがいる。


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