メイン » » » 加藤武雄
かとう たけお

加藤武雄

かとう たけお

1888.5.3(明治21)〜 1956.9.1(昭和31)

大正・昭和期の小説家

埋葬場所: 26区 1種 36側 26番

 神奈川県津久井郡川尻村(相模原市緑区)出身。川尻村村長を務めた加藤泰次郎・ヌイの長男。号を東海。6歳の時に祖父の加藤忠太郎から「古文真宝」や「唐詩選」などの漢詩文の素読を受ける。12歳の時に「少国民」や「少年議会」に投書。
 1902(M35)川尻小学校高等科卒業後、久保沢郵便局で見習い事務員をしながら、尋常科准教員免許状を取得し、同年の夏から横浜市戸部尋常小学校補助教員となった。'04小学校本科准教員免許状を取得し、神奈川県高座郡田名小学校准訓導となる。'06この頃より、畑久保の観音堂に集い「二月会」の活動をはじめ、「文章世界」が創刊されるや投書をした。また「中学世界」、「秀才文壇」、「万朝報」などにも、しきりに投書。罵禅、紅袖、紫袖、冬海、東階などと号し、中でも本名と冬海を最も多く用いた。'07津久井郡串川村根小学校准訓導、'09川尻村川尻小学校准訓導に転じた。この時の教え子に後に詩人となる八木重吉(八木の母は加藤の祖父の姪)がいた。'10.4前田夕暮(12-1-10-21)に勧められ「秀才文壇」に『高原の冬』を発表して初めて原稿料を受けた。同.9川尻小学校を退職し、小説家の中村武羅夫を頼って上京し、訪問原稿の執筆を始める。23歳の時である。
 '11.5新潮社に正式入社。'13(T2)島崎藤村著作集「緑蔭叢書」の中の「破戒」宣伝文を担当し、好調な売り上げをあげ、宣伝文の優れた筆に新潮社の創業者である佐藤義亮に高く評価される。同.11.27その社長の佐藤義亮の媒酌で五十嵐花子と結婚。翌年、長男の恒雄が誕生。
 '16新潮社が「文章倶楽部」を創刊した際に、小林愛川の名で『文壇立志篇』(田山花袋・徳田秋声・小川未明氏・島崎藤村)を発表。「文章倶楽部」「トルストイ研究」両誌の編集主幹となる。また、同.9 処女作『土を離れて』を発表。'17.1「新潮」1月号に「芥川龍之介を論ず」と題し、「ひょっとこ」、「鼻」、「羅生門」等を本名で論評する。また同号に『鎮守祭』を発表。以降、自作や「新潮」での論評は本名、「文章倶楽部」「トルストイ研究」では小林愛川の名で発表するようになる。
 '19 第1創作集『郷愁』(十二編収録)を「新潮社」から刊行。'20第2作品集『夢みる日』(十五編を収録)を「新潮社」から刊行。同.9 最初の長篇『悩ましき春』を前田晃の口入で「福岡日々新聞」に連載する。'21第3短編集『処女の死』(十一編を収録)を「新潮社」から刊行する。同.6新聞連載をしていた『悩ましき春』を刊行。農民文学にも強い関心を示した作風は郷土芸術家と呼ばれるようになる。
 '22第4短編集、『幸福の国へ』(十二編を収録)を「新潮社」から刊行。'24『祭りの夜の出来事』、'25『土を離れて』などの短篇集を発表。'27(S2)農民文芸会の機関紙「農民」(編集者 犬田卯・発行者 加藤武雄、自宅に事務所を置き、資金の大部分を負担)を創刊。その後も自作及び論評を発表する。作風は郷土芸術から主として通俗小説・大衆的少女小説家として活躍した。'28「農民」六月号が突然終刊(通巻9号)、これには加藤も重い荷物を引いて坂道を登っているつもりだったが、途中でふと後ろを振り返ると荷車に誰も乗っていないじゃないかと落胆したという。
 '29『春遠からず』を「キング」に、『緑の城』を「婦人倶楽部」に連載。『女と母と −ある女の手紙から−』を「新潮」に発表するなど創作活動の傍ら、同.3.10多惠文雄、細田民樹らと日本鑑賞倶楽部を設立。また反マルクス主義を標榜して「芸術の十字軍」を名乗る集会を開き、十三人倶楽部を結成した。'30『昨日の薔薇』『審判』『長篇三人全集(中村武羅夫・加藤武雄・三上於莵吉)』を「新潮社」刊行。『星の使者』『火の翼』を「婦人倶楽部」に連載。この時期、加藤が属する「十三人倶楽部」と舟橋聖一(3-2-6-3)ら「蝙蝠座」、井伏鱒二ら「文芸都市」、小林秀雄、堀辰雄(12-1-3-29)ら「文学」の各グループに芸術派の作家32名が集い、文学それ自身の特殊な領域を守るべく大同団結を行い「新興芸術派倶楽部」を結成した。同.6.27中村武羅夫、直木三十五らと日本キネマ株式会社を創立し、第1回作品として「昨日の薔薇」を撮影し市政会館で試写会を開いた。
 '31与瀬民謡の制作依頼を受け「与瀬小唄」作成のために、白鳥省吾(11-2-8)らと制作。'32『不滅の像』を「婦人倶楽部」、『東京哀歌』を「富士」、『孔雀船』を「報知新聞」に連載。『饗宴』を「春陽堂」から刊行。この頃は出版不況に伴い原稿料不払い問題が続出し加藤ら被害者8名が「創造」発行者を相手どる出版界最初の原稿料請求訴訟を起こした。
 '33『三つの真珠』を「講談倶楽部」、『春の暴風』、『朝花夜花』を「中外商業新報」に連載。'34『珠は砕けず』を「キング」、『華やかな戦車』を「報知新聞」、『喘く白鳥』を「婦人倶楽部」、『地獄の聖歌』を「講談倶楽部」、『銀の征矢』を「九州日報」に連載。'35『晴れ行く山々』を「少年倶楽部」を連載。少女小説『君よ知るや南の国』を「講談社」、随筆小品集『郊外通信』を「健文社」から刊行。'36『呼子鳥』(映画化)を「キング」、『合歓の並木』を「婦人倶楽部」、『夢みる都会』を「富士」、『愛の山河』を「講談倶楽部」に連載する。『新潮文庫 喘く白鳥』、『入門百科叢書 小説の作り方』を「新潮社」、『海に立つ虹』を「講談社」から刊行。'37『華やかな旋風』が「講談倶楽部」、『春雷』が「婦人倶楽部」に連載。『珊瑚の鞭』、『八犬傳物語』を「新潮社」から刊行。'38『曠野の火』を「富士」、『きらめく星座』を「日の出」に連載し大衆文壇の花形作家となる。『吹けよ春風』を「講談社」から刊行。同.8大仏次郎らと朝鮮・満州を旅行するも、5月に結婚したばかりの長男の恒雄の応召の知らせを聞き帰国。
 '39『国難』を「キング」に連載。'40『新生の歌』を「講談倶楽部」、『母よ歎く勿れ』を「婦人倶楽部」が連載。『加藤武雄短編傑作集」(全五巻)』が「大都書房」から刊行。農民文学懇話会(会長有馬頼寧)の相談役となり、国防文芸聯盟の常任委員、文芸協会の名誉会員となる。'41『土の偉人叢書 二宮尊徳』を「新潮社」、『国難』を「講談社」、随筆集『青草』を「道統社」から刊行。'42『新生』を「大阪錦城出版社」から刊行。'43『少女と教養』を「淡海堂出版」から刊行。同年、新潮社を退社した。
 '44『饒河の少年隊』を「偕成社」から刊行。'45疎開のために帰省。'46コント集『襖の文字』を「文学社」、『細田源吉 風流随筆』を「風流堂」から刊行。'47『合歓の並木』を「鎌倉文庫」、書下ろし歴史小説『叛逆』を吐風書房から刊行。夏期大学講師の一人として秋田県下を巡回する。この頃に成城連句会の世話役となり柳田国男らとしばしば句会を設けた。'48『呼子鳥』を「青踏社」、『君よ知るや南の国』を「妙義出版社」から刊行。'49「横顔 −我が文壇生活回顧ー」を連載。随筆集『我が日我が夢』を「大衆文芸社」、相田隆太郎との共著で『手紙の書き方』を「大泉書店より刊行。'50地元の 川尻小学校の校歌を作る。'54『叛逆』『火の翼』『新たけくらべ』を「東方社」から刊行。'55『薔薇散りね』『火の翼』『愛染草』「東方社」から刊行。'56『黄昏の都合』が「東方社」から刊行される。 自宅で脳出血のため逝去。享年68歳。'57没後、『愛の山河』が「東方社」、'61『女の夢』が「東方社」から刊行された。

<コンサイス日本人名事典>
<加藤武雄読本 小説家加藤武雄の年譜>


*墓石は和型「加藤家之墓」。墓石右面が墓誌となっており、戒名は浄智院久遠冬海居士、享年は69歳と刻む。妻は花子(1972.8.11没 82歳)。

*長女の葉子は舟橋聖一の弟の舟橋快三に嫁いだ('37)。長男の恒雄は坂江千鶴子と結婚('38)

*神奈川県津久井郡城山町中沢の生家墓所内にも分骨されており、高さ1.5メートル程の墓碑に吉野秀雄の筆で「加藤武雄之墓」と刻まれている。

*津久井湖(城山ダム・城山大橋)方面から国道413号の都井沢交差点を左折し直進した先にある、城山発電所の構内を抜けて坂道を登り城山湖畔に向かう途中に加藤の文学碑がある。この文学碑は女婿の丹下健三が設計した。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・か行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。