宮城県北部栗原郡築館町(栗原市築館)出身。「しらとり しょうご」はペンネーム時の読み方であり、「しろとり せいご」は本名の読み方。
1902(M35)地元の旧制宮城県立築館中学校に入学し詩を作り始める。1909早稲田大学英文科入学。'10「夜の遊歩」などの詩を収めた処女詩集『世界の一人』を若山牧水、太田水穂、前田夕暮(12-1-10-21)の仲介で自費出版し、詩人として文壇デビュー。
'13(T2)早稲田大学卒業後、『新少年』、『露西亜評論』、『女学生』など、戦前に栄華を極めた雑誌の編集を担当。'18『詩歌』に詩「殺戮の殿堂」を発表。'19詩人の団体「詩話会」の発行する『日本詩集』の編集委員(〜'25)や'21『日本詩人』の編集委員(〜'26)に就任。
'22 北原白秋(10-1-2-6)と民謡に関しての論争を繰り広げる。これは白鳥は「民謡」を活字の上で朗読されるものとした上で、それを「民衆」に流通させようとした。この白鳥の「民謡」概念を、白秋は厳しく批判。白秋は「民謡は謡(うた)えなければならぬ。山野において自然に謡われなければならぬ」と、「民謡」は“歌”であると主張し激論が繰り広げられた。結果的にこの論争以後、「民謡」の概念は白秋の線にしたがって進んでいくことになった。
また『日本社会詩人詩集』を賀川豊彦(3-1-24-15)、福田正夫、加藤一夫、百田宗治、富田砕花と共著、『泰西社会詩人詩集』を福田、百田、富田と共訳し、省吾と共に福田・百田・富田の4人が“民衆派詩人”と呼ばれる契機にもなった。一方で、靖国神社の遊就館をうたった「殺戮の殿堂」は日本を代表する反戦詩として注目を集めた。
自然主義文学の影響を受け口語自由詩を作り人気を博し、農村生活をテーマにした平談健康な詩風で知られた。「文学だけで社会性のないもの、芸術だけで人生のないもの、いわゆる芸術至上主義の詩は私は好みません」という言葉通り、そこには健康的な生活と結び付いた、近代の社会思想を基盤とする民衆詩人の姿がうかがえる。
主な詩集に「大地の愛」「共生の旗」「耕地を失う日」、評論集「現代詩の研究」などがある。 またワルト・ホイットマンの訳詩集、崇拝者で知られる。詩集の他に、評論集・随筆集・民謡集・童謡童話集など百冊近くある。'26「大地舎」を興し、自らが主催・企画する詩誌『地上楽園』を出版し(〜'38)、金素雲などの若手詩人の育成に努めた。
'44太平洋戦争の激化に伴い、後妻の喜代の縁で、東京小石川から東浪見村遍照寺に家族全員で疎開し、'55千葉市小仲台町に転居するまで過ごした。千葉に移ってからは、音頭、社歌、小唄、民謡、歌謡を多数作詞した他、校歌の作詞でも知られ、その数は日本全国で200校を超える。詩集、評論集、随筆等著書も数多く、日本全国に建立された文学碑も30基を超える。
'60(S35)故郷、築館町名誉町民。同年、西條八十の退任後、第2代日本詩人連盟会長となる。'61日本農民文学会長。'62日本歌謡芸術協会会長。同年日本民謡協会から文化章受賞。'63千葉県から文化功労者として認定される。'68勲4等瑞宝章。同年より亡くなるまで和洋女子大学教授を務めた。享年83歳。詩壇に尽くした功績により、昭和天皇より銀杯を下賜される。1998(H10)郷里の栗原市(築館)に白鳥省吾記念館が開館。2000(H12)より栗原市が「自然、人間愛」をテーマに口語自由詩で優れた作品に「白鳥省吾賞」を制定した。
*墓石前面「白鳥省吾家之墓」、裏面「昭和四十九年八月二十七日 白鳥園枝 白鳥東五 建之」。左側に墓誌があり戒名は詩星院松風暁悟居士。前妻は秀子(同墓・S9に38歳の若さで没す)、後妻は喜代(同墓・H21.5.17に103歳で大往生:戒名は台光院清明喜香大姉)。前妻の白鳥秀子は大崎安藝子のペンネームで詩人として活躍。後妻の喜代は句集を出版するなど俳人として活躍した。省吾と秀子の二女の白鳥園枝は詩人で作詞家。代表作に千昌夫が歌う『星影のワルツ』などがある。
*省吾と秀子の長女のたか子(同墓:S4.7.12歿:戒名は温容軒夢現雲照善童子)は5歳で疫痢により早死。「星と語る」(二篇からなる百六十六頁の叙事詩)は長女たか子に捧げた哀歌。
*白鳥省吾の兄の廉蔵の長男の白鳥敬一(省吾の甥)が白鳥省吾の事績を後世に正しく伝えるために研究会を発足し、また「白鳥省吾記念館」が開館に尽力された。敬一の妻である白鳥ナヲエが亡き夫の遺著を七回忌に際して自費出版した遺稿集「白鳥省吾のふるさと逍遙」を刊行されている。