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おおさき あきこ

大崎安藝子

おおさき あきこ

1897.5.15(明治30)〜 1934.6.19(昭和9)

大正・昭和期の詩人

埋葬場所: 11区 2種 8側 19番〔白鳥〕

 宮城県遠田郡涌谷町出身。本名は白鳥秀子。旧姓は長谷。詩人の白鳥省吾(同墓)の前妻。藩主亘理家(伊達安藝の正系)の一門たる長谷孝次郎の三女として生まれる。
 1916(T5)仙臺市東華女学校(後の県立第二高等女学校)卒業。'30.4.24伊藤祐成、砂金隊、両夫妻の媒酌により白鳥省吾と結婚し上京(見合い結婚)。'21.3.19長男・省一、'26.10.27長女・たか子、'29.9.13(S4)次女・園枝(後に詩人・作詞家)を産む。
 '26白鳥省吾が「大地舎」を興し、自らが主催・企画する詩誌『地上楽園』を出版した際に、雑誌の校正や発送を助ける。女子の同人が少ないところから、『地上楽園』第三号八月号から大崎安藝子のペンネームにて詩を寄稿。大地舎同人の詩の母と称された。'32詩集「孔雀」を刊行。白鳥省吾が妻の秀子(大崎安藝子)の新婚生活、妻と家族に捧げた詩集は『随筆・世間への觸角』、『長編叙事詩・結婚の歌』で見ることができる。
 '33.8より病床に臥せ、次第に悪化して翌年3月中旬には医者も匙を投げたが、一端もちなおし4月下旬には「どこか明るい家へ」と子女の通学の便の良い家に引っ越したが、間もなく息を引き取った。享年38歳。この時、長男省一は早稲田中学の二年生、園枝は幼稚園に通っていた。
 『地上楽園』「白鳥秀子追悼号」には「白鳥秀子夫人小傳」が載せられ、省吾は「感謝の辞」に於いて妻の病状を書いている。目次裏には「大地舎」同人、友人と共に墓参した時の記念写真が載せられ氏名が記されている。後尾には「妻の墓」と題して省吾が以下のように記している。

 <妻の埋骨は郷里に於いて営むつもりで、新墓地も畧々決定してあったのであるが、東京の方が子女の墓参のためにもよかろうといふ説もあり、多磨墓地にきめようかといふことになって、林信一氏の案内で七月十二日に検分に出かけた。児玉花外氏も令弟の墓参を兼ねて一緒に行ってくれた。/中略/松林の近くに適当なところがあったので、そこにきめて工事を依頼して来た。乙種第十一区八側拾九番。/後略/>

<『地上楽園』「白鳥秀子追悼号」(昭和九年十一月一日・大地舎発行)>


「雪は降る降る/多磨墓地に/あの母さんの墓のうへ/うつくしく。」

<『随筆・世間への觸角』に「男やもめの記」白鳥省吾>


<白鳥省吾を研究する会「白鳥省吾物語 第二部 会報二十号」(四)、
結婚前後 大正九年>


*墓石前面「白鳥省吾家之墓」、裏面「昭和四十九年八月二十七日 白鳥園枝 白鳥東五 建之」。左側に墓誌があり戒名は丈彩院湧泉秀芳大姉。墓誌には本名の白鳥秀子と刻み、大崎安藝子の刻みはない。なお、娘の園枝は詩人で作詞家。


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