東京牛込区出身。1901(M34)東京帝国大学農科大学林学実科卒業。林学者の本多静六の助手となり、日比谷公園建設事業・設計に関わる。他に琵琶湖周辺風景観光計画、佐渡全島計画、長野戸隠及び長野市周辺計画、徳島城跡の洋風公園計画、高松栗林公園の拡張計画、著名人の私邸の庭園設計などに携わった。'05ドイツのミュンヘン大学に留学し、造園学や西洋造園史を研究。'10林業経済学で博士号を取得。
帰国後は、母校の講師をつとめ、「建築工芸叢誌」に論説を投稿。また、'13〜'17(T2-T6)千葉県立高等園芸学校(千葉大学園芸学部)で庭園学の講師を務める。門弟には後に多磨霊園設計者・東京市公園課の井下清(8-1-18-18)や丹羽鼎三(12-1-17)ら、その後日本における造園事業を担う若者を輩出した。なお、丹羽鼎三の門弟で孫弟子に池原謙一郎(19-1-7)がいる。
'15明治天皇崩御後に、神宮を建設しようという機運が高まり明治神宮造営局が発足。明治神宮造園事業、神宮外苑造成計画が始まる。この計画の中心を担ったのが、師匠の本多静六と、日本の造園学の祖と称された上原敬二(6-1-11)と本郷の三名である。神社の森は永遠に続くものでなければならないという基本計画を掲げ、自然林に近い状態をつくり上げるために、カシ、シイ、クスノキなどの常緑広葉樹を採用し、各種の広葉樹木の混合林を再現すれば人手を加えなくとも天然更新する「永遠の森」をつくることができると考え着工を目指した。当初、当時の総理大臣であった大隈重信が天皇を祀る社(森)を雑木の藪にするつもりかと反対意見が出たが、関東ローム層の上にある明治神宮は保水力に乏しく豊富な水が必要である杉は生育が悪いことを科学的に証明(木の根元から先端までの幹を一定の間隔ごとに輪切りし断面の年輪を調べ成長過程を推定する方法)、納得させた。全国から10万本もの原木が集められ植林をはじめ、初めに針葉樹と広葉樹を半分づつにし、大きな針葉樹の間に小さな広葉樹を植えていき、針葉樹で森の基礎をつくった。あとは放っておけば、50年、100年後と時が経つにつれ、広葉樹が大きくなり、針葉樹が消えて、150年後に広葉樹の森が出来上がると計画した。2015年に100年を迎え、明治神宮の森は人工の森だとは思えないほど自然豊かな森となっている。
'20内務省都市計画東京地方委員会技師も兼務。同年、庭園協会設立に参加。'22より終戦まで内務省神社局嘱託として国内外の神社神宮の林苑計画整備に尽力した。'24東京高等造園学校(東京農業大学)の創立に関わり、理事となり、講義も行った。'29(S4)『社寺の林苑』を刊行。「造園叢書」でも執筆した。なお、「造園叢書」の出版人は長坂金雄(17-1-1)。享年72歳。
<永遠の杜をめざして・・・本多静六・本郷高徳・上原敬二 など>
*墓所内右に「本郷家墓所」の石柱が建つ。墓石は古く前面に三名の戒名(男性二名・女性一名)が刻む。右面に「文化九甲年八月十九日 本郷一左兵門」と刻む。裏面には「高慶 高亮 高義 建之」と刻む。左面に「明治十五年八月二十日 本郷一之助 高亮 明治丗四年二月十九日 本郷高徳 養母」と刻む。墓所内左に墓誌が建つ。墓誌の左面に「昭和五十五年十二月吉日 本郷高庸 建之」と刻む。本郷高徳の戒名は仁恵院殿鶴翁高道淳徳居士。行年は73才と刻む。
*多磨霊園の生みの親である井下清が日本初の公園墓地構想に着手した際に、外国の公園墓地研究を最も早く始めていた師匠の本郷高徳に相談を受けており、本郷は多磨墓地設計のアドバイザーとして援助している。
*日本の公園の父と称された本多静六の墓は青山霊園(1種ロ16号30側)。
※多くの人名辞典では没年を1945年(昭和20年)と記されていることが多いが、墓誌の刻みを優先した。
第321回 あれから100年 明治神宮外苑誕生秘話 多磨墓地設計アドバイザー 本郷高徳 お墓ツアー 多磨霊園開園100周年
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