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いけばら けんいちろう

池原謙一郎

いけばら けんいちろう

1928.7.6(昭和3)〜 2002.3.16(平成14)

昭和・平成期の環境造景作家、
日本サッカー元祖サポーター

埋葬場所: 19区 1種 7側

 愛知県名古屋市出身。池原茂二・静子の長男として生まれる。1945(S20)第八高等学校を経て東京大学に入学しサッカー部に所属。農学部農学科園芸第二教室にて丹羽鼎三(12-1-17)に師事。'51卒業し、大学院に進学するも中退し助手となる。
 '55建設省に入省。'58日本住宅公団宅地部に転職し、同年、庭野デザイナー6人展に参加。仕事の傍ら、日本住宅公団サッカー部に所属。'59白川公園計画懸賞公募に参加し2等。'60世界デザイン会議に参加し、環境部会でパネラリストをつとめた。'63日本技術開発株式会社・総合計画部に移籍し、緑地課長に就任。'64建築家の石井尚や樋渡達也、小林治人、グラフィックデザイナーの早川和也らとチームを組んで、東京都主催代々木公園設計者選定コンペティションに応募。1等は無しで2等に入選。基本構想の原案として採用される。同年、国際造園家協会連合IFLA東京大会に関わり、また伊藤邦衛らと幹事となり「造園設計事務所連合」(ランドスケープコンサルタンツ協会)を発足した。この頃より、東京大学農学部非常勤講師も務める。
 '66設計・造園コンサルタント会社「環境計画研究室」を設立し代表。'69日本造園学会賞受賞。'72第2回日本公園緑地協会北村賞受賞。'73東北大学工学部非常勤講師、筑波大学大学院芸術学研究科非常勤講師を務め、'78筑波大学芸術学系教授に就任した。'92(H4)筑波大学を停年退官し名誉教授。2001日本造園学会上原敬二賞受賞。
 造形美を追求したアート感覚の公園を設計、さらに同世代の造園・環境デザインを担う仲間と活動を積極的に展開し、戦後造園設計界の中心的存在となった。主な代表作品は、入谷南公園('59)、東京オリンピック記念代々木公園基本構想('64)、羽衣公園('66)、金町駅前市街地住宅ランドスケープ・プレイグラウンド('67)、南多摩新都市開発事業公園緑地基本計画('70)、大阪万博政府出展日本庭園実施設計('70)、長岡セントラルパーク('70)、明治100年記念展望台('71)、沖縄海洋博覧会政府出展海浜公園基本構想('73)、夢の島公園、所沢市根岸公園、つくば・竹田公園('76)、岐阜市都市ランドスケープ計画('77)、光が丘パークタウン・グランドハイツ地区コミュニティ道路('83)など多数。著書に『園をつくる』('92)がある。
 また一方で、'62サッカーのサポーター組織「日本サッカー狂会」を設立し、日本サッカー元祖サポーターとして支援。'68「ニッポン! チャチャチャ!」の応援スタイルを発案した。'73日本サッカー狂会旗を考案(現モニュメント)。「日の丸の旗の中の『日の丸』が大きくなり、ついに白地からはみ出すまで日本のサッカーが強くなることを期待し、応援するイメージをもとにデザインした」(日の丸の赤丸に模した赤いサッカーボールが枠からはみ出る大きさに描かれている)と語っている。自作の横幕を掲げ、男子はもとより女子や少年の応援にも駆けつけたサッカー熱愛者であった。享年73歳。告別式には狂会創設の横幕とともに「日本もサッカークラブだ!」と大書した横幕が並べられた。また日韓W杯開催年での逝去は仲間たちから惜しまれ、仲間たちは遺影を持って埼玉スタジアムの日本代表戦を応援したという。

<墓誌碑略歴>
<日本公園緑地発達史>
<「池原謙一郎さんの功績を偲ぶ 先見性に富む「狂会」の創設者」牛木素吉郎など>


墓所 墓誌

*墓石がサッカーボールである。墓誌がユニフォームとサッカーボールが組み合わさったデザインとなっており、池原謙一郎と妻の和子(1937.2.7-2010.8.22)の刻みがある。墓誌の裏面は池原謙一郎の略歴が刻み、「サッカーと仕事と氷入りビールが大好きだった父、家族に寄り添い続けてくれた素敵な母に感謝して… 2013.3.15 夏 建之」と刻む。また、最下部には「この桜の下で母と2人 静かなお花見をした30年前の春 『たんぽこ!』と瞳を輝かせ 幸せいっぱい摘んでくれる君ありがとう アシストは光輝く初夏の風 素敵に決まったループシュート! 今日こそはツーステップスキップできるはず 2人で跳ねる稽古場近し 「ニッポン! チャチャチャ!」日の丸の波魂奪われ熱狂する」と刻む。

*道路側の墓所入口には石柱が建ち「日本サッカー元祖サポーター」、「『ニッポン! チャチャチャ!』発案 1968年」、「夢量心光笑儚喜び慈」とそれぞれの面に刻む。


【日本サッカー狂会】
 日本サッカー狂会(きょうかい)は日本最古のサッカー日本代表のサポーター組織である。池原謙一郎が「静かなスタンドに活気を与え、日本チームを応援しよう」と音頭を取り仲間を募ったのが始まり。
 1962.12(S37)日本代表がディナモ・モスクワとスウェーデン選抜を招待し後楽園競輪場にて行われた第1回三国対抗試合で、同.12.9日本代表対スウェーデン戦に、サポーター仲間の鈴木良韶(本業は愛知県・曹洞宗東光寺の住職)が ≪ゴール前で徐行するな 必勝日本代表 私設応援団日本サッカー狂会≫ という横断幕を掲げたことで、正式に「日本サッカー狂会」と名乗るようになった。池原が会の幹事長(初代会長)に就任し会則がつくられた。
 '65鈴木の編集にてガリ版刷りの会報「F00TBALL」が発行され、サッカー情報が少ない時代において全国の会員の交流・情報交換が行われた。国立競技場のバックスタンド中央の19番ゲート付近を観戦・応援場所の聖地とした。ワールドカップ予選やオリンピック予選等の国際試合には、独自の横断幕を掲げ会場を盛り上げた。1980年代より国外への応援ツアーを独自で企画し、80年代末の会員数は250人と少しずつ増やしていった。
 当初の応援スタイルは「三三七拍子」や「日本」の連呼であったが、'68イングランドサポーターによる「イングランド! チャチャチャ!」のチャントをモデルに、池原が「ニッポン! チャチャチャ!」のチャントを発案。同.5 イングランドのアーセナルFCとの親善試合で初めて導入されると、次第に応援として定着した。'79日本で開催されたFIFAワールドユース選手権ではスタジアム全体の応援に波及するに至った。このチャントの応援スタイルは他のスポーツにも広がりを見せ、バレーボールでは定番となっている。
 '93 Jリーグ発足などサッカー界を取り巻く環境の変化から従来の活動を継続することが困難となり、日本サッカー狂会の発展的解消が検討され、'95解散。解散後は一部メンバーで「新狂会」が結成された。


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