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ひらおか ようこ

平岡瑤子

ひらおか ようこ

1937.2.13(昭和12)〜 1995.7.31(平成7)

昭和期の翻訳家、三島由紀夫夫人

埋葬場所: 10区 1種 13側 32番

 東京出身。日本画家の杉山寧・元子の長女。旧姓は杉山。別名に三島瑤子。
 湯浅あつ子の妹の板谷諒子が三島由紀夫の妹の平岡美津子(1928.2.23-1945.10.23 同墓)と三輪田高等女学校で同級生であった。この縁で湯浅家は平岡家と親交があった。湯浅あつ子の家はサロンのようになっており、三島由紀夫も出入りしていた。湯浅あつ子は三島由紀夫の書き下ろし長編小説『鏡子の家』の鏡子のモデルにもなっている。また湯浅あつ子の前夫との間の娘が、母・元子の妹である叔母の小松静子(8-1-15:夫は小松晃道)の息子と同じクラスの縁で仲が良かった。
 1958.3.23(S33)叔母の小松静子は瑤子の良縁を探しており、湯浅あつ子が瑤子の写真を三島由紀夫に見せた。同.4.13 湯浅あつ子は日本女子大学英文科2年生であった瑤子を銀座のドイツ料理店「ケテル」に連れていき、三島由紀夫とお見合いをさせる。その後、3人で「浜作」で夕食を取った後、青山のナイトクラブに踊りに行った。三島は遊びずれしていない瑤子を気に入り、その後も湯浅同伴でデートを繰り返す。相思相愛を確認した湯浅が小松静子と一緒に三島家で下話をまとめ、同.5.3 平岡家と杉山家の両家で懇談を持ち、二日後に婚約の運びとなり、同.6.1(S33)二人は結婚した。三島由紀夫は33歳、瑤子は21歳であった。
 港区元赤坂の明治記念館で三々九度の盃をあげ、披露宴は麻布三河台町の国際文化会館にてパーティーが行われた。媒酌人は川端康成で、司会はロイ・ジェームス(外-1-別中:後に湯浅あつ子の夫となる)が務めた。披露宴後に箱根・熱海・京都・大阪・別府・博多に新婚旅行に行った。結婚に伴い、瑤子は学校を中退し専業主婦となった。
 三島は結婚相手の条件を、「三島由紀夫」ではなくて、「平岡公威」と結婚したい女性を望む旨と共に『私の見合結婚』の中で下記のように語っている。「文学なんかにはちつとも興味をもたず、家事が好きで、両親を大切に思つてくれる素直なやさしい女らしい人、ハイヒールをはいても僕より背が低く、僕の好みの丸顔で可愛らしいお嬢さん、僕の仕事に決して立ち入ることなしに、家庭をキチンとして、そのことで間接に僕を支へてくれる人」。また美輪明宏は三島と結婚した瑤子に会ったときの第一印象について「私、瑤子さん見たとき、びっくりしましたもの。亡くなった妹さんの写真にそっくりで」と述べている。
 '59.5.10大田区馬込に新居に転居。同じ敷地内の離れに夫の両親(梓と倭文重:同墓)も居住。同.6.2 長女の紀子が誕生。'60.11.1夫と二人で海外旅行に出発し、ハワイ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、ポルトガル、スペイン、フランス、ロンドン、ドイツ、イタリア、アテネ、カイロ、香港を周遊し、翌.1.20帰国。'62.5.2 長男の威一郎を出産。
 専業主婦として側面から三島の文筆活動を支え、運転が得意であるため三島に代わり運転手もこなした。カーレース出場も目指そうとしたが三島の許可を得られず断念した。'65.9.5再び三島に同伴し海外旅行に出発。ニューヨーク、ストックホルム、パリ、ハンブルク、バンコク、カンボジアを巡り、同.9.31帰国。'67三島が陸上自衛隊に体験入隊した際には、陸上自衛隊富士学校に訪問し、訓練中の三島に叱咤激励した逸話がある。この年も、三島に同伴しインド、タイ、ラオスに赴いた。
 '70.7セギュール婦人『ちっちゃな淑女たち』を松原文子と共訳、序文および訳文監修を三島が担当し翻訳家としてデビュー。小学館児童文学賞を受賞した。同.11.25三島が割腹自殺。三島事件で怪我をした自衛官らを見舞うなど事後処理に追われる。'71三島瑤子名義で夫の遺作『豊饒の海』の第4巻『天人五衰』のカバー画を描いた他、'72.1『定本三島由紀夫書誌』(島崎博との共編)に助力。また三島の蔵書や遺稿の整理・保存に尽力した。
 嫉妬深い性格で三島の生前は、男女を問わず、仕事仲間の女優や過去の交友にまで及び、ペットの猫にすら嫉妬の対象であったという。その行為は愛の裏返しでもあり、三島没後の三島の名誉や著作権保護において断固たる対応をとり、無断引用や事後誤認には厳しい態度で連載中止や出版停止に追い込んだものもある。加えて、三島を取り上げる映画作品やマスコミの取材行動で、三島の同性愛関連やバイオレンス(自決後の三島の生首写真)などに対して、過剰なほどに抗議・阻止をした(瑤子没後に再販されるケース多い)。
 この間、'71.2.28 盾の会解散式に出席。同年より東京地方裁判所で始まった盾の会事件の公判も傍聴し、保釈になったメンバーを出迎え自宅に招き食事会をした。以後、三島の命日の11月25日には、毎年親しい知人を自宅に招き夕食会を開いた。'76.4アメリカ旅行に出発。三島の小説『午後の曳航』をルイス・ジョン・カルリーノが映画化した作品『The Sailor who fell from grace with the sea』のプレミアショーに出席。同.7 日本試写会にも出席し、日本語と英語で挨拶をした。
 '77.3.3 元盾の会のメンバーも加わって発生した経団連襲撃事件に際して、経団連会館に立てこもった彼らの説得にあたった。瑤子は現場の会長室に電話を入れ、叱りつけ、切られても再度電話をし「今から私が迎えに行くから」と告げ、現場に乗り込み直談判。メンバーたちは瑤子の気迫に押されて投降となった。
 '87.9.1 三島由紀夫賞が創設されて以降、授賞式パーティーに毎年出席した。'95(H7)肺真菌症が悪化し自宅療養していたが、容体が急変したため、東京女子医科大学病院に入院も急性心不全のため逝去。享年58歳。告別式は8月2日に自宅で営まれ、葬儀委員長は中央公論社の嶋中鵬二が務めた。

<三島由紀夫関連書物多数>


墓所 靈位標

*同墓所には、なつ(三島由紀夫祖母)、定太郎(三島由紀夫祖父)、美津子(三島由紀夫妹)、公威(三島由紀夫)、梓(三島由紀夫父)、倭文重(三島由紀夫母)、瑤子がの順で墓誌に刻む。平岡定太郎は明治・大正期に活躍した官僚であり原敬の側近。平岡梓は農商務省の官僚。



第2回 三島由紀夫のお墓ツアー


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