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おかの かおる

岡野 馨

おかの かおる

1893.2.20(明治26)〜 1941.12.12(昭和16)

大正・昭和期の仏文学者

埋葬場所: 6区 1種 16側

 東京出身。父は俳人の岡野知十、りへ(共に同墓)の長男として生まれる。弟(次男)に戯曲作家の木川恵二郎(同墓)。筆名を「岡野かをる」とするときもある。
 1915(T4)東京外国語学校仏語科卒業。「蛇の舌」同人となる。'21渡仏。フランス文学を学び、帰国後、陸軍大学教授を務めた。
 '23 アナトール・フランス『エス・ボナールの罪』の訳書でフランス文学の翻訳家としての活動を開始。'25 刊行のユゴー『ルイ・ブラス』をはじめ、同年にミルボー『小間使日記』(のち『小間使の日記』と改題)、'27(S2)ユゴー『ヱルナニ』、'29 アナトール・フランス『タイス』(のち『女優タイス』や『舞姫タイス』と改題)、'33 ピエル・ロチ『水夫』などがある。また小山内薫と松田衛と『世界童話劇集』(1930)を共訳した。他に父の岡野知十の作品や弟の木川恵二郎「破れ暦」の編刊などを手掛けた。享年48歳。

<日本近代文学大事典>
<20世紀日本人名事典など>


*墓所内には二基の同じ和型墓が建ち、左側が「岡墅氏墓」(野の旧字)、右側が「木川氏墓」。裏面は野村家は「昭和八年八月十三日 建之」、木川家は「昭和八年八月建之」と刻む。それぞれの墓石の横に岡野家と木川家の墓誌が建つ。墓誌には岡野家は「昭和七年八月十三日 谷中墓地より改葬」、木川家は「「昭和七年八月九日 谷中墓地より改葬」との刻みから始まる。岡野馨は墓誌に「陸軍大学教授 正五位勲五等」と刻む。馨の戒名は圓覺院法純日馨居士。妻は美枝(1900-1974:旧姓は赤倉)。

*木川家代々の墓(岡野家代々も北海道から改葬)は元々「谷中霊園」にあった。菩提寺は世田谷の幸竜寺。1927(S2)岡野知十の親友の13代守田勘弥(1-1-6-8)の勧めで、 岡野家代々の墓を多磨墓地に、5年後に改葬。墓石は岡野知十の一周忌に木川家と一緒に建てられた。

墓所 石碑 墓所

*「岡野家」と「木川家」の墓石の間に青石がどっかりと座している。その青石には下記が刻む。

「釜かけて 誰待つとしもなく 雪に  知十」

 岡野知十の一周忌(1933)の記念に知巳友人により建立、贈られたものである。贈られた雪、月、花の句碑のひとつ「雪」の句である。なお、月の句碑〈名月や銭かねいはぬ世が恋し〉は江東区冬木弁財天境内に、花の句碑〈仏生も復活も花笑ふ日に〉は北区王子の飛鳥山公園にある。

※以前は墓所内の青石の横に「平成三年二郎記」とある句碑 の説明板が立っていたが現在はない。岡野二郎は岡野馨の次男で岡野家当主。二郎は知十の句集などの再版を手掛けた。


【岡野家と木川家】
 木川家の墓誌より、岡野知十の実父である木川昭胤が明治13年6月6日に73才で亡くなっている。昭胤の妻の治との間には多くの子どもを儲けており、4男であった敬胤こと知十は断絶していた岡野家の養子となる。ところが、子沢山であった木川家であるが、明治の時代だけで、昭胤の3男の正胤(33才歿)、4女の粂(27才歿)、次男の光大(40才歿)、5女の楽(55才歿)と早死ではないが若い年齢で亡くなっている。長男の情報は不明であるが、木川家の将来を見込み、知十の次男の恵二郎が木川家の養子となる。木川恵二郎は戯曲作者として才に秀て13代守田勘弥らに認められ、将来を渇望されるも、27才の若さで亡くなった。
 一方、岡野家の墓誌より、岡野敬胤こと知十と りへ との間に4男4女を儲けたが、明治期の間に幼少にて2男2女が早死。長男で家督を継いだのが岡野馨。馨の妻は美枝。馨の長男で早死した誠一郎も眠る。馨の次男の二郎が継いだ。5男の静一は藤田英次郞の養子。

※岡野知十の父の名を人事興信録には「木川照胤」と書かれているが、墓誌には「昭胤」と刻むため、「木川昭胤」と統一する。



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